凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

自分にとってのイチローさん。

先日イチローさんが引退した。

自分もテレビでその試合を見ていて、最後に打って欲しいと祈りながら見ていた。しかし自分も含めて多くの人たちが望んでいた、その一打はでなかった。それでもその後の交代の場面や試合終了後にもかかわらずお客さんが帰らずイチローさんを待ち続けることから、どれだけの人にとってイチローさんが特別な存在だったかが分かった。

 

僕はサッカーをやっていたが、小学生の時に自己紹介とかで書く尊敬する人にはイチローさんの名前を書いた。その時イチローさんの本を図書室で借りたり、本屋で買ったりもした。

 

じゃあ、なぜイチローさんに惹かれたかというと、ただ単純にカッコよかったのだと思う。イチローさんのその生き方や考え方がカッコいいからという頭で理解したカッコよさではなく、本能で感覚でそのカッコよさに惹かれたのだと思う。そこから「じゃあイチローさんみたいになるには?」というところから生き方、考え方を真似したような感じである。

 

ただその生き方や考え方を貫くためには相当の覚悟と強さが必要だった。そして自分にはその覚悟と強さが足りなかった。孤独と苦労に耐えれなかったんじゃないかなと思う。そしてその中途半端さゆえに副作用の効果をより多く被ることになってしまった気がする。

 

そしてここからが本題なんだけど、自分は最後のイチローさんの姿に魅力は感じられなかった。

 

それは最後の会見で言っていたこの言葉が物語っていると思う。

 

「ある時まで自分のためにプレーすることが、チームの為になるし、見てくれる人も喜んでくれると思っていたけど、ニューヨークに行ってから、人に喜んでもらえることが、1番の喜びに変わってきた。

ファンの存在なくして、自分のエネルギーは全く生まれないと言っていいと思う。」

 

これはたしかに正論だ。人に喜んでもらえることこそ1番の喜びだと自分も思う。それでもこのコメントにはある意味残念であり、ある意味仕方ないなというか、本当にお疲れ様でしたと言いたい気持ちだった。

 

誰になんと言われようと、自分の理想をまっすぐに求め、自分を信じ、貫き通すという多くの人が憧れはするけど、一方で自己中心的と思われたり、非現実的だと言われたり、マイナス面も多いそんな姿に僕や多くの人が魅了させ、惹きつけられたのだと思う。

 

だからこそ最後までそんな姿を貫き通してもらいたかったという思いが半分。

 

そしてもう半分は多くの人が憧れを持ちつつ、できないほどのことを、それもトップのところで長い期間続けてきたという事実の裏に潜む、孤独感や苦労に対する同情と感謝の思い。

 

「ファンの存在なくして、自分のエネルギーは全く生まれないと言っていいと思う」と言ってることから、自分の中から作り出せるエネルギーがなくなってしまったことがわかるし、それの時期からヒットも打てなくなっていることからなにか、イチローさんがイチローさんであるものが失われてしまったのだと思う。

 

それは年齢的に昔のように去年よりもいい結果を残すということが現実的に厳しくなって、自分の中で作れるモチベーションがなくなってしまったのだと思う。
だからこそファンの存在がイチロさんの大きな支えとなり、その後もプレーヤーを短い期間ではあったが続けられたのだと思う。

 

 

人は人に喜ばれることが1番幸せかもしれないが、1番魅力的なのは自分のためにやっている人なんじゃないかと思う。

 

もっと言えば、頭で考えるといいとは言い難いけど、それでもそれがいいと思えるものこそ魅力があるのかもしれない。

 

そんなことを小学生からずっと見てきたイチローさんから感じた今この頃。

 

言語化のいたちごっこ

言語化。最近よく聞く言葉だ。
自分もわかりやすく言語化できる人のことをカッコいいなとと思う。
しかしそこになんとなく違和感を感じることがあった。
 
だから自分なりに整理して、それを言語化してみた。
 
まず現在、自分のまわりには(世界中には)インターネットの発達で、自分が言語化できないモヤモヤを言語化してくれる人がたくさんいる。ただその人たちが知っているなにかとそこから自分が得たものは違うと思う。
 
それは知っているということにある程度段階があるからだと思う。大きくわかると3つの段階があると考える。
 
1.そもそもその知識自体を知っているか?
2.言語化できる内容をどう知っているか?(どういうつながりで知っているか)
3.言語化できない、暗黙知と言われる感覚としての部分をどれくらい知っているのか?
 
 
 
具体的な例として「本田圭佑」を例に見てみると、
第一段階としては、「本田圭佑」という人の存在を知っているかである。
 
第二段階として、「本田圭佑」がサッカー選手であること、どこでプレーしているか、オーストリアのクラブのオーナーであること、カンボジア代表の監督であることなど、「本田圭佑」にまつわることを知っているのか、そしてそれにまつわることであるサッカーについて、日本について、あるクラブについて、一緒にプレーした選手について知っていれば、より深く「本田圭佑」について知っていることができると思う。でも知っているだけでなく、その散らばっている知識に関連性を自分の頭で考えないともちろん意味はないが。
 
第三段階として、「本田圭佑」と会って話したことがあったり、プレーを一緒にしたりした人は、そういう言語化できない以上のことを実際の経験から知っている。また「本田圭佑」以外の人のそういうことを知っていることも、「本田圭佑」を知るうえで大切なこと。
 
もう一つたまたま今朝食べた「納豆」で説明してみる。
第一段階としては、まず「納豆」の存在を知っているかどうか。日本人はほとんど知っていると思うが、幼い子は知らないと思うし、外国人の中には知らない人も多いだろう。
 
第二段階として、「納豆」が大豆からできていること、発酵させて作られること、いつできたのか、なぜネバネバするのかなど、「納豆」にまつわることや、その他の発酵食品、納豆ができたころの歴史背景などを知っており、そこにつながりを持たせていること。
 
第三段階として、「納豆」を実際に食べたことがあったり、もっと言えば様々な種類の「納豆」を食べたことがあり、感覚として、「納豆」を知っていること。またほかの食品についてより多く食べ、感覚として知っていることも第三段階として、大切なこと。
 
このように知っているには段階があり、テーマである言語化は、知っている中の一部分である。
 
つまり、
知っていること= 言語化されたもの + 暗黙知
 
 
そういう風に考えていることを前提に言語化されたものを知る場面のことを考えてみたい。
「あることを体感的には知っていたけど、言葉にするとありふれてしまい、なんか違う」という時なのか、「あー、なんかこの感じいいな」「この角度から見るなんて知らなかった」と思う時だと違う。
前者はそれなりに言語化してくれた人とわりと近いことを知っているかもしれないが、後者は言葉としてであったというような感じだと思う。
 
ただ後者の場合もあとから、経験して「あー、そういうことだったのか」とより深く知ることができる。もしその言葉を知らなかったら、その経験をスルーしてしまっていたり、その経験からなにかを知ることができなかったりするかもしれない。だから後者も別に悪いわけではない。
 
だけども後者の場合勘違いを起こす場合があるので注意が必要。
 
例えば本を読んだ時のことを考えてみる。
基本的にあるテーマについて専門家が書かれた本ははポイントを掻い摘んでわかりやすく書いているし、小説はあまりにもりあるなものもある。だから分かった気になってしまうことが多々ある。しかし本はそれなりに広いターゲットに対して、全体像が分かるように書かれていたり、多くの人が共感することを丁寧に書かれていたりするので、全部知った気になってはならないと最近思う。
 
時々知った気になって話す自分がいる。でもあとから、その根拠を知らなかったり、その知識が単独すぎたり、薄っぺらいなと感じ、恥ずかしい思いをすることがある笑
ただそういいう経験を通して、より深く知っていくんだなと感じる。とは言っても、すべてを知った気になって話すのではなく、まだまだ知らないことが多いと頭の中に入れて話したい笑
 
 
こんな風に言語化について考えてみたり、本を読んでみたりする自分は単純に”知識欲”がまずあるのだと思う。
でももう一つ欲だけでなくて、論理的に計算してみて、行動したいという自分がいるから、必要だと思い、こうしているのだとも思う。それはサッカーから離れたときに、次どうしようかということを考えたら、世界がすごく広がったから。いろんなことを知り、その中に楽しさ、可能性を感じたからだと思う。
 
その過程には知っていることが広がることと、それを言語化していくといういたちごっこがあった。知っていることと言語化できることの差が広がることもある。またいろいろな人の考えを知り、価値観を知り、表現方法を知るということは、自分が考えたもの、作ったものが、他人の真似ではなく、ほんとうに自分の中から出てきたものかどうか分からなくなっててしまうこともある。
 
そんな風に知っていることを広げ、それを言語化していくという過程には、プラスとマイナスどちらも含まれていると思う。それは便利さを追求していく過程にプラス面もマイナス面もあるのと似ている。
しかし、前者はプラスの方がマイナスよりも大きいのに対して、後者はプラスよりもむしろマイナスのほうが大きいと思う。
 
だからこそ、その過程を信じて楽しみたいし、そこに価値を、そして意味を見出していきたいと思っている。
 
 
そんな自分が今思うのは、第三段階の暗黙知、つまりどういう過程の中で、どういう物語の中で、どういう経験の中で知っているかがこれから重要になるんじゃないかということ。
 
なぜなら答え(言語化できること)はインターネットがあるし、アルゴリズムがよりよくなるから見つかりやすくなる。また知ることが簡単になるからだ。逆に言語化できないものは伝えることが難しい。つまり真似することが難しい。だからこそ、その部分を知っていることが大事になってくるはず。
 
 
「言葉で表現してください」と言われたら、職人と見習いも同じようなことを言うかもしれない。特に言葉で表現することが得意な見習いだとなおさら。
でも知っていることの差はあるし、たぶん言葉の重みが違う。皆さんもそう感じた経験があるでしょう(今こう言っている自分の言葉が軽いと感じているのはさておき。笑 )
 
そしてこれからはだからこそ"人間"なのだと思うし、人間らしさ、つまり言語とか数値とか以上のことをしっていることこそ、大切なことだと思う。
自分はそういうことをうまく表せられない。だから糸井重里さんの言葉を借りると
 
 
「人がすることに、人は喜ぶ」
 
ということ。
 
自分はただこれをいいなと思う。
 
 
ここでようやく最初の問いに戻りたい。
言語化に対する自分の感じる違和感は言語化できなければ知っていないも同然とか、表面だけなぞった言語化は薄っぺらいなと感じることなんだと思う。
そしておそらく前者については世の中に対して。後者については自分に対してなのだろう。
最近”人間味”が少しなくなってきてしまったなと、”薄っぺらいな”と感じ、進む方向を少し修正しないといけないなと思っている。
 
 
 
じゃあ自分はこれから具体的にどうするべきか?
 
矛盾していると思われるかも知らないが、まずは自分の価値観や、まわりのことに対して、自分の考えを言語化できるようにしていきたい。
 
理由はまず第一に言語化できないということは、皆に自分の考えを伝えられないということ。つまり共感や協力を得難いということ。それはもったいないことだと思うし、よく生きていくには必要なことだと思うから。
 
第二に言語化することは暗黙知を知ることの土台になるし、そこから深めていくことができるようになると思うから。
 
そのうえで実際の経験を通して知っていることに、もっと言えば限りなく多くの失敗や成功という経験を通して、言葉にできない部分も知ることが大切だと思う。もちろん経験するだけでなく、"考える"ということを通して。つまり自分の中で試行錯誤を繰り返すということ。
 
最後に前の記事を見ると、「薄っぺらいな」とか「視野狭いな」とか「ちょっと背伸びしたな」とか思う。でもそれはそれで必要なことだとも思う。来年の自分はそんな風に今回の記事を「薄っぺらいな」と思えるように頑張ろうと思う今この頃。

 

「今」「自分にとって」「幸せとは『考える』ことによってもたらされる」  2018の学び

あけましておめでとうございます。
ほんとは昨年書きたかったけど、少しぐらい遅くなってもいいでしょうと自分を甘やかしてしまいましたが、去年のことを振りかえっていきたいです。
 
 
題名にあるように「考える」ことが今年のテーマであるというか、ここ3年くらいのテーマであったと思う。
しかしそれを今年はある程度形として話せるようにと思ったし、大事な学びだと思ったから、今から書いていきたい。
 
 
自分は父からよく「考える人になりなさい」とよく言われてきた。
最近は考えすぎで、逆に心配されるくらいだが(笑)
とは言っても、つい3年前くらいまでは考えてきたつもりだったが、考えていなかったのかもしれない。
 
いや、考えてはいたが、世界が狭すぎたし、方法の種類は少なかったし、たいしたことではなかったと思う。もちろん今が世界を俯瞰して見れるようになったということではないが、前に比べたらだいぶましになった。
 
それはサッカーとの関係を考えることがきっかけだった。
 
サッカーを外の世界から考えたり、自分にサッカーがなかったことを考えてみたり、そういった視点を持てるようになってやっと本格的に「考える」ことができるようになった。
 
自分はつい最近まで、自分が見ている世界と、自分の中を探せば、世界のことがすべて理解でき、すべて解決できると思っていたし、外の人が自分のことについてあれこれ言うなと思っていたから、ほんと扱いにくい奴だった思う(今もそうかもしれない)。
 
 
そういうやつがさっきのタイミングでようやく無知さを認めて、自分の偏見を認めて、そういった偏見を持たない人、世界を俯瞰して見て話せて行動できる人、かつ自分のことをより深く知っている人、になりたくて、いろいろ勉強したり、考え始めたのだと思う。 
 
つまり世界全体を俯瞰してみて、自分をどう活かしたらいいか、そしてどうしたら幸せになれるか知りたかったのだと思う。
 
 
しかし結論から言うと、今でも最後に自分のことを決めるのは、誰でもなく自分であり、偏見を持った人でこれからもあり続けると思うし、幸せとは「考える」ことにことによってもたらされる(これは3年前くらいにわけもわからず書いた、出口浩明さんの言葉なんだけど、今何となくわかる気がする(笑))と信じている。
 
 
ただそれは過去を引きづって、その周りをウロチョロ散歩していて、至った結論ではなく、自分の中ではいろいろな道を歩きながら、最低一周はして至った「仮止めされた変化可能な結論」だと思っている。
 
 
 
ここからは今書いてきたことをもう少し具体的に書いていきたい。
 
まずサッカーの外にも世界があるということを、本やネット、友達の話から知った。というか、ちゃんと認識した。
今までも聞いてはいたのは間違えないが、興味がないので、右から来て左にそのまま抜けているような感じであったと思う。
 
 
最初新たな世界を知ると、隣の芝生は青い現象ではないが、外国のいいところに目がいき、日本はすべてダメなように感じてしまうのと同じで、これこそ真理だと勘違いしてしまうことも多かったと思う。
 
もう資本主義はだめだとか、大企業はブラックだとか、日本の教育はもう古いとかそんな風に。
 
おそらく自分はそれのほんの一部でだったり、いいところだけや悪いところだけだったり、片方しか見ていなかったりしていたのに、それがすべてだと思い込んでしまっていた。
 
 
教育に携わっている身として、少しだけ個人的な意見を言うと、少し古くなった教育法を変えようとしていて、良い動きだなと思うけど、結局社会に必要な人を育てるために変えるのが、主な目的であれば、それはいずれ今と同じ状況になりそうだなと個人的には思ってしまう。
今回のテーマは教育ではないので、このへんにして、話を戻す。
 
 
深めたり、広げたりすると、それが勘違いであるということや、偏見だったということを理解できる。視点は高くなり、視野は広がった。
まぁ偏見の度合いがましになっただけだか。
 
つまり同時に、どこまで行っても、何かの環境の中で生きていくことになる。
例えるなら家族のルールの外には、地域のルールがあり、その外側にら日本の法律があるし、その外側には資本主義とかそういった考え方みたいなものもあるということ。
 
そして外側に行けば行くほど、その内部には矛盾が隠れていることが多い。
 
例えば自由を大切にすれば何事もうまくいくとは限らず、不平等を作り出したり、相反する欲求を抱いてしまった時にどうするかもわからなかったり、ある価値を台無しにしてしまうという矛盾をもっているみたいな。
 
 
自分は、日本で生まれて育ってきた20代の男であり、例えば、民主主義の自由主義の環境で生きてきた。
だからこそ、この環境が当たり前だと思うし、自然で、不変だと思い込んでいた。
 
もっと身近な例だと、イントネーションが微妙に違うことがあったり、友達とやるドッチボールのルールが違ったり、友達の家で食べるカレーの玉ねぎの大きさが違ったり、どれも自分の経験がすべてだと思い込んでいた。
 
しかしどれもある一つの考え方や見方に過ぎない。
 
「私たちは一人残らず特定の歴史的現実の中で生まれ、特定の規範や価値観に支配され、特定の政治的制度に管理されている。」と聞いてまさしくだと感じた。
 
そしてこの現実を当たり前だと感じ、それをすべての人がそう感じていると思い込んでしまう。(一般化のワナ)
 
 
だからこそ意識的に、自分の考えや社会のルールについて疑い、探り、新たな可能性を見出し、選択する権利を得られるようにすることは大切なことだと思う。
 
そしてその中から選んだものについて、これこそ真理であり、完璧なものだと思い込まず、独善主義(自分こそ、私たちこそ正解であり、他は間違ってるいる)に陥らないことが大切だと思う。
つまり3つのことを頭に入れておく必要があると思う。
 
1つ、ほかの考えからいいところを取り入れること。
 
何個か具体例を出すと、
現代の悪いところはなくしていき、過去のいい部分は再度復活させようとか。
インドア派だから外にはいっさい出ないとかでなく、この外遊びは好きだからこれはするとか。
ドッチボールのルールでこっちの方が楽しそうだから、こっちのルールを採用しようとか。
 
 
2つ、相反してしまう考えの場合は互いに干渉しないのも一つだということ。
 
具体例としては宗教とか、文化とか。そもそも根本的に考えが違う場合は仲良くできないということを受け入れる。
その代わり、そっちは間違っているから直してやろうとか思わないことみたいな最小限のルールだけ定めて、お互いに干渉しあわないこと。
 
 
3つ、もっと良い考え方が存在するかもしれないし、これから環境が変わることで、変えていく必要があるということを理解すること。
 
縄文時代と今とでは考え方は違って当然ということ。
 
 
 
話を戻すと、困ったことに、常に周りの環境を疑い、もっといいものがあると思うことは、キリがない。
どこまでも深められるし、広げられる。
自分はこの問題に直面した。
 
今よりもいいものがまだあるに違いない、これよりも深い根拠があるに違いない、将来は今辛抱すればよくなるに違いないとキリがなくなること。
 
つまり満足するというか、これでいいんじゃないかと思えないということになる。
 
そう、自分はなかなか満足しないし、世の中にも満足しない人が多い。
 
それが正しいことや良いことだと割と多くの人は思っているし、自分自身も思っていた。
 
しかし最近個人的にはどうなのかなと思っている。
 
 
もちろん満足したらそこで成長のスピードが遅くなり、勝てないのは事実なのかもしれないし、多くの人が成長のない世界はつまらないと感じると思う。
 
でも本当の目的は無理してでも勝つことや、なにかできても満足しないこと、なにかの快感のあとにすぐに不満ばかりが膨れ上がる勝利なのだろうか?
 
 
自分はなにか違うなと感じている。
そもそもいろいろな情報を知ったわりには、あまりに情報が多すぎて、対処できないというか、知恵にできないというか、まとまった整理されたものにできないでいるときがある。
 
知ってしまったから、逆に頭の中がぐちゃぐちゃしたり、逆に今まで考えていたゴールの先にもっと先のゴールがあることが見えて、ゴールが遠のいたり、マイナスに働くこともある。
 
しかし今の状態でいいなんて思えないし、もっと良くなりたいと思うものだ。
 
2つを同時に満たすのはなかなか難しい。
困ったものだ。
だができないわけでもないと思う。
 
 
今は個人的なことで言ったが、世の中だって、目的が手段にの繰り返し、贅沢品はすぐに必需品に。
 
楽をしようとして発明したインターネットやその他のもので、より忙しくなっている。
 
世界がグローバル化されるにつれて、ライバルの数は増え、勝てる人は減り、スピードはさらに加速し、楽はできなくなる。
格差は広がっている。
 
 
僕は今年の三月に東南アジアを一人旅をした。その時感じたのは、田舎のほうが都会や観光地に比べて笑顔の人が多い。
小さい子供と老人の笑顔は多いが、中間層の笑顔は少ない。
 
これは先進国の文化に触れる回数が増えれば得るほど、笑顔は減ると自分は感じた。
それにスマホという魔法の道具を発明してしまったからには、不満を持つ人々はより一層増えていくだろう。
ほんとにこれを望んでいるのかと感じる。
そのことの記事はここにあるのでもしよろしければどうぞ。
 
つまり「不幸は欲望と能力のギャップにある」ということだと思う。
旅の最中たまたま読んでいた本に書いてあっただけに、まさしくこういうことなんだなと感じた。
 
そうなると不幸まっしぐらだと感じるのは自分だけだろうか?
欲望はだいたいが自分の知っているトップ層のものであり、能力は自分自身。そうなるとほとんどの人がギャップが広がり、不幸まっしぐらになるのではないか?
 
そうなると自分の感じている違和感はそんなに間違ったものでもない気がする。
 
とはいっても、だいたい自分の意見を正当化してくれる情報を無意識で選んで、やっぱりそうだろと思うことがよくあると思うから、微妙だけど、自分自身は今そう思っている。
 
別に満足しないことが悪いわけではないと思う。
とは言っても大きすぎる欲望を抱くのはあまりよくないと思うし、あれもこれもになるのもあまりよくないと思う。
 
なぜなら欲望と能力のギャップが広がるばかりだから。
 
ちゃんと自分自身で選んで、自分の欲望は決めるべきだと思う。
 
 
そう考えたら焦る必要もあんまないなと感じていて、来年の目標の一つは焦りすぎない(笑)
 
 
ただもう少し先の話になるが、そんな風に欲望を大きくしろ、満足するな。
そのためにできる限り働け、そしてたくさん消費しろ、それも効率的に。
という世の中のおかげで、せいで、
自分のことを自分より知っているものが出てくるかもしれない。
というか、できるようだ。
信じられないが…
 
そうしたら、その通りにやるのが、目的を達成する一番いい方法なる。
 
具体的に言うと、自分の目的は 世界全体を俯瞰してみて、自分をどう活かしたらいいか、そしてどうしたら幸せになれるか知り、行動に移すこと。
そしたら世界のことに詳しいやつ(人だとは限らない)と、自分のことを自分より詳しいやつが話し合って、決めて出た答えこそ正解になる。
 
何も間違っていないし、それを自分が行動に移せば目的達成だ。
 
ほかに例を出そう。
例えばあるサッカーチームの試合を見たとする。
 
個性が生かされていて、コンビネーションも抜群だし、チームの一体感があり、魅力的なチームで、そのチームの試合を見て感動したとする。
 
しかし実は、DNA検査をして、その結果を踏まえた上でのトレーニングメニューをコンピュータ(AI)が作成し、AIが選手のポジションを決め、戦術を決め、選手の頭には小さなコンピューターチップが埋め込まれ、AIがインターネットを介して、全選手に指示を送り、脳に電気信号を送り、思い通りに動かす。
選手自体は自分の意志で動いていると思っているが、それは間違いである。
 
でもこの事実を知らなければ、勝つということや感動する、させるという目的は達成される。
 
 
しかし自分はこれに違和感を感じるし、おそらく皆さんの中にも少なからず違和感を感じる人はいるだろう。
 
確かに目的は達成されるし、最短で効率的だ。
 
でもその過程には”不確定要素”、”予測不可能性”はないだろうし、山あり谷ありもない。一般的に言うマイナスの感情もない。むしろプラスの感情だけではないか。
 
これはいいことのように感じるが、なんだかそうなってしまうとつまらないと感じてしまうのは自分だけだろうか?
 
人間味がない世界というか、なんで生きているのかわからないと感じるのは自分だけだろうか?
 
旅をしていて思ったのは、不確実だからこそ、生きている感じがすごくしたということ。
そう考えるとマイナスと考えることも必要なことだと感じられる。
まぁそれは振り返った時だけなんだけど(笑)
 
それと結局そうなってしまうと、ただなにかを効率よくこなすだけのロボットと同じだし、何か入力したら、はいこれが答えデスみたいな感じ。
 
もうそこには”考える”ことなんてないのかもしれない。
 
もちろん考えて選ぶということは、考えて選んだものが間違っていて、「うわーショック」、「ミスった」ということがあって、悲しくなったり、苛立ったりすることがあるかもしれない。
 
でも考えていろんなことをしたからこそ、そこに物語が生まれて、うまくいったりわかったりしたときの感情は抽象的だけど、間違えなく「良いもの」になると自分は信じている。僕はそこを目指したい。
 
たとえ目的は同じでも、そこへたどり着く道のりで差が出る。無駄が物語を作り、無駄が魅力を生む。無駄は一見”本当に無駄”に見える。
だけどそれこそが本当に大切なことだと思う。
 
じゃあなにが無駄を生むかというと、
『考える』ことだ。
 
不完全な、未完成な、謎に満ちた人間が考えて出した答えだからこそ、山あり谷ありがあり、また山でもない谷でもない平野があり、無駄が生まれる。
 
だからこそ「幸せは考えること」によってもたらされると思う。
 
 
そう考えるとスポーツは究極の無駄なものかもしれない。
プロやプロを目指す人以外、本来日常生活にいらない活動だ。
 
なのにこれだけ多くの人がスポーツをしている。
それはスポーツが多くの人に意味を与えてくれるからだと思う。
 
逆に健康のためとか、教育的要素のためとか、お金のためとかはスポーツの意味や価値を減らしているのかもしれない。
 
 
話を戻すと、もちろん時には100発100中な占い師みたいな自分をより知っているものを使ったり、何か言ったらすぐに答えを用意してくれるものを使わないとはいわない。
 
ただ使うときにはちゃんとした意見をもって使いたい。
それなりに認められている考え方なら、いい面は必ず持ち合わせていると思うから。
 
具体的には自分がどうこうできる問題ではないが、例えば地震を予測できるAIがいたら、自分は何も考えずにこのAIの指示に従うだろう。
 
そろそろまとめていく。
自分はこれから、自分ではわりとまともなことをいっているつもりだが、ある人から見たら偏見でしかない言動をたくさんしていき、その度に恥をかく、そんな人生を歩んでいくのかもしれない。
 
僕と真逆の方向に進む人もいるだろう。
その人から見たら、「なんて無駄なことを言っているのだ」ということになりかねないし、「よくそのようにわざわざ苦痛を味わいに行くんだ?」ということになりそうだ。
 
でも、別にそう言われてもいいのだ。
それにいい悪いという判断や意味を与えられるのは自分自身だけだと自分は信じているから(これは真理ではないし、偏見であるけど)。
そう、「自分にとって」よければいいのだ。
 
とはいっても、このような考え方は変わるかもしれない。
周りの環境も変わるし、自分自身も変わる。だから考え方も変わっても不思議ではないし、独善主義にならないということでも、そう思う。
とりあえず仮止めしといて、「今」はそうおもっているということ。
 
まとめると
タイトルにあるように「今」「自分にとって」「幸せとは『考える』ことによってもたらされる」ということになる。
 
 
決まりきった道を進む、無駄の全くない人生なんて、僕はごめんだし、こういった方向に成長していきたい。
 
 
 
最後まで読んでくれた皆さんありがとうございます。もしこの文章から何か感じたのであれば、感想いただきたいです。
そんな風に思う今この頃。
 
 
 
*特に影響を受けたもの
  • 東南アジア一人旅
  • サピエンス全史
  • ホモ・デウス
  • 初めての哲学的思考法
  • それお金で買いますか
  • 勉強の哲学
  • 遊びが学びに欠かせないわけ
  • ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする
  • レディープレーヤー1
  • 君の膵臓を食べたい

「やりたいならやればいい。やらなきゃって思うならやめればいい。」

今回のタイトルは、自分が今はまっているドラマ「僕らは奇跡でできている」の7話で出てきたセリフ。自分がサッカーをプレーヤーとしてやっているときに、ずっと考えていたようなことをシンプルにすっきり表現してくれたような言葉だった。

 

このドラマのことを知らない人のために簡単に説明すると、高橋一生が演じる、一見変わった動物行動学の講師と、榮倉奈々演じる、自信がなくて、自分をよく見せようと頑張っている人との関係を中心に日常を描くハートフルドラマ。

なにげない言葉が響く、自分にとってここ最近見た中で1番のドラマだ。

 

話を戻す。自分にはサッカーしかないとどこかでそう思っていた。

今思えばそれはとてもリスキーなことだし、自分で自分の首を絞めることになるとわかっている。

でもその時はわからなかったし、ある意味肯定的にとらえて、一つのことに懸けている自分に酔っている反面、不安だったり心配だったりという自分もいたと思う。

 

認められたい。サッカーだけでは何としても認められたい。評価されたい。勝ちたい。

 

でも上には上がいる。

また見る人が変われば評価も変わることもある。

 

自分の努力不足ではあるが、満足できる評価は得られなかったと思うし、最後は苦しいサッカー生活だったと思う。

 

それは上に書いたような感情がやりたかったサッカーをやらなきゃいけないサッカーに変えてしまったからかもしれない。

 

ただこのような感情が絶対に良くないということではない。

 

こういった感情が素晴らしい選手を輩出する役割を担っていることは重々承知だし、この感情がなくなることはないだろう。

 

それでもこれが絶対に、全てが、正しいことではないということ。つまりこの感情が行き過ぎるとよくないことが人によってはあることも理解してもらいたい。

 

好きでやりたくてやっていたものが、やらなきゃになってしまった時のつらさ、悲しさ。なぜこれをやっているのだろうという虚無感。

 

自分はプレーヤーをやめるとき、セレクションを受けて落ちたからやめるといったけど、本心はほっとしていた気がする。「やめたいからやめる」といわなくて済んだと。

やらなきゃになってしまったサッカーを最後まで心の底から好きにはなれなかった。時々うまくプレーできた時は楽しかったこともあるけど、基本的には、大好きだった子供時代とはかけ離れていた気がする。

 

矛盾するようだが、今自分はサッカーの指導者をしている。

それは”やらなきゃ”ではない”やりたい”からやっているとちゃんと言える。一度離れたからこそまたそう思えたのだろうし、コーチという立場の違いももちろんある。プレーヤーとしてまたサッカーをしたいなとも最近また思うけど(笑)まだ少し先かな、、、

 

ともかく今回改めて自分がなぜ”やりたい”のか思い出してくれたと思う。

 

サッカーを教えるからには、技術だったり戦術だったりを教えることになる。

それは技術があったほうがサッカーを楽しくできる可能性が広がるだろうし、戦術を知っていたほうがサッカーを楽しくできる可能性が広がると思うから。

しかし時々教えていて、よくないのだが、子どもたちができないことにイライラしてしまうことがある。そして後になって後悔する。「あ、目的からはずれていたわ」って。

 

なぜ自分がサッカーの指導者を”やりたい”のか?

1つはサッカーが大好きな子のプレーを見ているのが楽しいから。うまくできたときの笑顔。点と取った時の笑顔。夢中になっている真剣な顔。本気で悔しがっている顔。どれもいい顔だと思う。

もう1つはやりたくてサッカーを始めた子が自分のようにやらなきゃになってしまわないように。もっと言えば、好きなサッカーをもっと好きに、楽しいサッカーをもっと楽しく思えるようにしたいと自分が思ったから。

 

自分にできることは、

  • 安心してサッカーを楽しめる雰囲気をつくること。
  • やらなきゃではなく、やりたいからやっていると思える環境をつくってあげること。
  • ならなきゃになっている子に対して、無理して上を目指す必要がないこと、ほかの道もあることをそっと伝えられる人でいること。
  • サッカーをやるにしても、やらないにしてもその子を応援できる人でいること。

 

こう思えたのはやり始める前だろうか?

それともやり始めてからだろうか?

 

正直微妙なところだ。

なんとなくはじめてしまった部分は少なくても必ず少しはあったと思う。

 

もちろんあるきっかけはあるし、なんとなく気づけていた部分はある。

 

ただ今こう思えているのだから、いいのだろう。

 

これも自分を肯定しているだけかもしれないけど、それでも今いいと思えているからいいのだ(笑)

 

とりあえずこんな風に自分の弱い部分、恥ずかしいと思っている部分を言えるようになったのは、成長なんじゃないかって思う、今この頃。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもに戻りたい???

こないだ見ている子どもにこう言われた。

「大人になんかなりたくない」

 

なんかグサッときた。。

 

そして大人の良く言うフレーズ

「子どもの頃に戻りたいな〜」

 

おそらく多くの成人の方々が思ったことがあると思うし、自分自身もそう感じることは多々ある。

 

友達なんかと「あの時〇〇が△して、おもろかったよな〜」とか「あの試合のあのゴールの瞬間忘れられないよな〜」みたいな昔話は、懐かしく、とても心踊るものだ。あっという間に時間は過ぎるし、昔に戻ったような気分になる。

 

些細な笑い話から、劇的なゴール(これも狭い世界かもしれないが笑)まで、別にどんなことでもいいから、振り返られるような出来事を共有できたことは、人生を豊かにしてくれるものだと思う。

 

でも今回言いたいのはこの2つのフレーズから、子どもが人生のピークであるのが当たり前だと思ってしまっている状況のこと。

それに自分は違和感と危機感を感じているということ。

 

 

年を取る、つまり大人になるということは、本来はたくさんの経験をし、知識と知恵を身につけることであると思う。時間をかけて、少しずつ自分と社会のことを理解していく。その中で自分はなにをするべきかわかり、日々に価値がでる。価値が出るというと大げさかもしれないが、意外と面白いんじゃないかなと思う。

だからこそ年を取るにつれて、つまらなくなるような人生はどこかで間違っているのではないかと自分は思う。

 

自分の考えるその原因は「自分を知らないこと」

自分が何をしたいのか、何をしたらいいのかがわからない。つまり自分の中の判断基準がぐちゃぐちゃなんだと思う。だから毎日が退屈でつまらなくなってしまうと自分は思う。

 

 

 

人は毎日9000回も決断をしているというデータが出ている。

その9000回の決断の理由が、

「みんながそうだから」とか、

「おすすめだから」とか、

「流行だから」とか

自分の判断基準のない、周りに流されてばかりの決断で埋め尽くされてる1日は、毎日は、人生はただ漠然としたものなんだと思う。

 

自分は自分の中の判断基準に照らし合わせて決断したり、直感を信じて決断したりする人生にしたいし、歳を取れば取るほど面白くなる人生にしたい。

 

こんなことを言っておきながら、自分の判断基準が明確じゃないと思う瞬間は多い。なにか言いたいけど、なにをいったらいいかわからない時がよくあるからだ。それはたぶん判断基準が明確じゃないから、言えないだけだと思う。判断基準というフィルターがあれば、それを通すだけで、自然と意見は出てくるはずだから。まだまだ若造だということである。

 

こんな話をしてきたけど、これが理想論なのもわかっている。年を取れば、責任も出てくるし、しがらみもそれなりにでてくるだろう。

 

それでも、理想を追いかけるのが、自分だし、それも自分の中の1つの判断基準なんだと思う。

 

教育にかかわっている身としては、子どもたちが「大人になりたくない」という言葉ではなく、「早く大人になりたい」「大人もけっこう楽しそうだな」と言ってもらえるようにしたいなと思う今この頃。

 

 

 

難しいことを簡単そうに見せるということ

先日シルクドソレイユの「キュリオス」を見てきた。素晴らしい演技はもちろんのこと、不思議な世界観のストーリー、そして要所要所に挟んでくるユーモアが様々な演技を繋ぎ合わせていて、あっという間の2時間半だった。

 

見てない人にはおすすめです!!f:id:kaigakugei:20180705105433j:image

 

で、今回書きたいことは、後半戦に差し掛かったサッカーw杯とキュリオスとの自分の感じた共通点。

 

どちらも世界トップレベルのパフォーマンス。

一流のプレーであり、演技である。

 

そのことを十分承知で、あえて失礼なことを言わせてもらう。

 

「すごいけど、なんか俺でもできそう」

 

分かっている。そんなことできないことは分かっている。

 

でもなんかそう感じさせるくらい、演技者の方々は簡単そうにやってのける。力んでないというか、踏ん張ってないというか。

 

同じようにサッカーをテレビで見ていて時々思うことがある。

 

「これくらい、俺でもできる」

「俺ならこういう風にした」

 

あんまり言うと、なめてんのかと言われるのでこのくらいにしておく笑

(でもサッカーやってる人、やっていた人なら多少なりとも分かってもらえるのではないか?)

 

でも冷静に考えると、もちろんそんなことはない。

 

一流は難しいことを簡単に見せられるからであり、それを簡単にできると思うのは、大きな間違えである。

 

サッカーに例えると、試合中何度も20〜30mくらいのインサイドパスがあるけど、とても簡単そうに見える。でもそんなことはない。50cmもずれずにあのスピードで、芝生の上を滑らせるように出すのは、簡単そうで相当難しい。

トップレベルはパスがずれないなとつくづく思うし、そこの差が大きいのだと思う。

 

また選手がいる位置一つとったって、ボールの位置、相手選手の位置、味方の位置、またそれぞれの選手の特徴など、たくさんの複雑な要素を把握した上での、位置取りである。

 

あと中でプレーしている視点と外から見ている視点ではえらい違いだということも忘れてはいけない。

 

少し長くなってしまったが、改めて何が言いたいかと言うと、

 

一流は複雑で難しいことを簡単そうに見せる。でもそれは簡単なことではなく、複雑なことを理解して、またそれを反復して繰り返しやったからこそできることである。

 

そんな風に思うのは、最近いろんなことをわかったつもりになっているけど、ほんとは表面しか理解していないんじゃないかという気持ちになっているからなのかもしれない。

 

つまり本や記事で書かれたことはあくまで、読者にわかりやすいように簡単に説明されたことなので、本当の理解のためにはもっと、複雑でわかりにくいものを、時間をかけて、取り組まなければ得られないものなんじゃないかなと感じている。

 

それでも外からのものを意識して取り入れていかなければいけないと思うのは、本に書かれていることを、その本を読んだだけなら5%もわかっていないかもしれないが、過去のことと繋ぎ合わせたら10%になるかもしれない。

 

そんな風にこれが前のなにかに繋がったり、これからのなにかに繋がったりすることで、だんだん言っていることがわかると思うから。

 

 

複雑なことをシンプルに分かりやすく説明できる人になりたいと思うが、そのためには複雑なことを複雑なまま理解することがまず大切であり、やはり多くの材料を集める時間と努力が必要だ。

 

人生そんなに甘かない。

そんな風に思う今この頃。

 

日本代表

w杯が開幕して、10日が経ち、リーグ戦も2試合が終わった。

日本代表は昨日のセネガル戦も、2回のビハインドを負いながら、2-2の引き分けに持ち込んだ。前のコロンビア戦では、勝ったし、日本代表はw杯前の下馬評を覆す、結果を出している。

 

自分自身、今回の日本代表は惨敗すると予測していたし、多くの人がそう予想していたと思うが、いい意味で裏切られている。

 

これはなにが要因だろうか?

 

それはコロンビア戦のアクシデントによる退場があったからかもしれないし、準備期間がクラブよりも少ない代表チームだからこそ、コロンビアにしても、セネガルにしても、いまいちチームとしてのまとまりができていなかったことが要因かもしれない。

 

要因はひとつじゃないし、どれが一番なんてわからないけど、

それでも自分が思う一番の要因は、戦術を"みんなで決める"ことだと思う。西野さんは戦術を決めるとき、選手といっしょに決めると言っていた。

 

西野さんのとっている戦術よりも、ハリルさんのとっていた戦術の方が、現代サッカーの勝てる戦術だったと思うし、"正解"に近いことをやっていたと思う。

 

しかし、正解から離れた方がある意味"いいもの"ができるかもしれない。  

 

そんな風に感じるのは前にこんな話を聞いたことがあるからだと思う。

「プロが作った綺麗でモダンな公園よりも、地域住民で話し合って作った公園の方が、多くの人が利用し、癒しを与えた。」

 

偉い人だったり、専門家だったりに正解を言われてやったものよりも、たどりつくものが多少不正解なものでも、その集団のメンバー全員で決めてやったものの方が、"いいもの"ができるし、愛着がわくと思う。

 

これはサッカーにも言えるはずだ。

みんなで決めることが根幹だし、スタート地点じゃないかなと自分は思う。

 

その上に、つまり自分たちみんなで戦術(規律)を作ることが大切なんじゃないかなと思う。

 

まぁそんなこと言ったって、なにが要因かわからない。

 

それでも自分の目には今の日本代表の方が、選手がイキイキしているように映るし、心を動かされるチームだと感じる。

 

最後にこのチームにまとまり(プレーのイメージの共有)が出てきたら、もしかしたらもしかするかも。

 

頑張れ!日本!!