自分にとってのイチローさん。
先日イチローさんが引退した。
自分もテレビでその試合を見ていて、最後に打って欲しいと祈りながら見ていた。しかし自分も含めて多くの人たちが望んでいた、その一打はでなかった。それでもその後の交代の場面や試合終了後にもかかわらずお客さんが帰らずイチローさんを待ち続けることから、どれだけの人にとってイチローさんが特別な存在だったかが分かった。
僕はサッカーをやっていたが、小学生の時に自己紹介とかで書く尊敬する人にはイチローさんの名前を書いた。その時イチローさんの本を図書室で借りたり、本屋で買ったりもした。
じゃあ、なぜイチローさんに惹かれたかというと、ただ単純にカッコよかったのだと思う。イチローさんのその生き方や考え方がカッコいいからという頭で理解したカッコよさではなく、本能で感覚でそのカッコよさに惹かれたのだと思う。そこから「じゃあイチローさんみたいになるには?」というところから生き方、考え方を真似したような感じである。
ただその生き方や考え方を貫くためには相当の覚悟と強さが必要だった。そして自分にはその覚悟と強さが足りなかった。孤独と苦労に耐えれなかったんじゃないかなと思う。そしてその中途半端さゆえに副作用の効果をより多く被ることになってしまった気がする。
そしてここからが本題なんだけど、自分は最後のイチローさんの姿に魅力は感じられなかった。
それは最後の会見で言っていたこの言葉が物語っていると思う。
「ある時まで自分のためにプレーすることが、チームの為になるし、見てくれる人も喜んでくれると思っていたけど、ニューヨークに行ってから、人に喜んでもらえることが、1番の喜びに変わってきた。
ファンの存在なくして、自分のエネルギーは全く生まれないと言っていいと思う。」
これはたしかに正論だ。人に喜んでもらえることこそ1番の喜びだと自分も思う。それでもこのコメントにはある意味残念であり、ある意味仕方ないなというか、本当にお疲れ様でしたと言いたい気持ちだった。
誰になんと言われようと、自分の理想をまっすぐに求め、自分を信じ、貫き通すという多くの人が憧れはするけど、一方で自己中心的と思われたり、非現実的だと言われたり、マイナス面も多いそんな姿に僕や多くの人が魅了させ、惹きつけられたのだと思う。
だからこそ最後までそんな姿を貫き通してもらいたかったという思いが半分。
そしてもう半分は多くの人が憧れを持ちつつ、できないほどのことを、それもトップのところで長い期間続けてきたという事実の裏に潜む、孤独感や苦労に対する同情と感謝の思い。
「ファンの存在なくして、自分のエネルギーは全く生まれないと言っていいと思う」と言ってることから、自分の中から作り出せるエネルギーがなくなってしまったことがわかるし、それの時期からヒットも打てなくなっていることからなにか、イチローさんがイチローさんであるものが失われてしまったのだと思う。
それは年齢的に昔のように去年よりもいい結果を残すということが現実的に厳しくなって、自分の中で作れるモチベーションがなくなってしまったのだと思う。
だからこそファンの存在がイチロさんの大きな支えとなり、その後もプレーヤーを短い期間ではあったが続けられたのだと思う。
人は人に喜ばれることが1番幸せかもしれないが、1番魅力的なのは自分のためにやっている人なんじゃないかと思う。
もっと言えば、頭で考えるといいとは言い難いけど、それでもそれがいいと思えるものこそ魅力があるのかもしれない。
そんなことを小学生からずっと見てきたイチローさんから感じた今この頃。
言語化のいたちごっこ
「今」「自分にとって」「幸せとは『考える』ことによってもたらされる」 2018の学び
「やりたいならやればいい。やらなきゃって思うならやめればいい。」
今回のタイトルは、自分が今はまっているドラマ「僕らは奇跡でできている」の7話で出てきたセリフ。自分がサッカーをプレーヤーとしてやっているときに、ずっと考えていたようなことをシンプルにすっきり表現してくれたような言葉だった。
このドラマのことを知らない人のために簡単に説明すると、高橋一生が演じる、一見変わった動物行動学の講師と、榮倉奈々演じる、自信がなくて、自分をよく見せようと頑張っている人との関係を中心に日常を描くハートフルドラマ。
なにげない言葉が響く、自分にとってここ最近見た中で1番のドラマだ。
話を戻す。自分にはサッカーしかないとどこかでそう思っていた。
今思えばそれはとてもリスキーなことだし、自分で自分の首を絞めることになるとわかっている。
でもその時はわからなかったし、ある意味肯定的にとらえて、一つのことに懸けている自分に酔っている反面、不安だったり心配だったりという自分もいたと思う。
認められたい。サッカーだけでは何としても認められたい。評価されたい。勝ちたい。
でも上には上がいる。
また見る人が変われば評価も変わることもある。
自分の努力不足ではあるが、満足できる評価は得られなかったと思うし、最後は苦しいサッカー生活だったと思う。
それは上に書いたような感情がやりたかったサッカーをやらなきゃいけないサッカーに変えてしまったからかもしれない。
ただこのような感情が絶対に良くないということではない。
こういった感情が素晴らしい選手を輩出する役割を担っていることは重々承知だし、この感情がなくなることはないだろう。
それでもこれが絶対に、全てが、正しいことではないということ。つまりこの感情が行き過ぎるとよくないことが人によってはあることも理解してもらいたい。
好きでやりたくてやっていたものが、やらなきゃになってしまった時のつらさ、悲しさ。なぜこれをやっているのだろうという虚無感。
自分はプレーヤーをやめるとき、セレクションを受けて落ちたからやめるといったけど、本心はほっとしていた気がする。「やめたいからやめる」といわなくて済んだと。
やらなきゃになってしまったサッカーを最後まで心の底から好きにはなれなかった。時々うまくプレーできた時は楽しかったこともあるけど、基本的には、大好きだった子供時代とはかけ離れていた気がする。
矛盾するようだが、今自分はサッカーの指導者をしている。
それは”やらなきゃ”ではない”やりたい”からやっているとちゃんと言える。一度離れたからこそまたそう思えたのだろうし、コーチという立場の違いももちろんある。プレーヤーとしてまたサッカーをしたいなとも最近また思うけど(笑)まだ少し先かな、、、
ともかく今回改めて自分がなぜ”やりたい”のか思い出してくれたと思う。
サッカーを教えるからには、技術だったり戦術だったりを教えることになる。
それは技術があったほうがサッカーを楽しくできる可能性が広がるだろうし、戦術を知っていたほうがサッカーを楽しくできる可能性が広がると思うから。
しかし時々教えていて、よくないのだが、子どもたちができないことにイライラしてしまうことがある。そして後になって後悔する。「あ、目的からはずれていたわ」って。
なぜ自分がサッカーの指導者を”やりたい”のか?
1つはサッカーが大好きな子のプレーを見ているのが楽しいから。うまくできたときの笑顔。点と取った時の笑顔。夢中になっている真剣な顔。本気で悔しがっている顔。どれもいい顔だと思う。
もう1つはやりたくてサッカーを始めた子が自分のようにやらなきゃになってしまわないように。もっと言えば、好きなサッカーをもっと好きに、楽しいサッカーをもっと楽しく思えるようにしたいと自分が思ったから。
自分にできることは、
- 安心してサッカーを楽しめる雰囲気をつくること。
- やらなきゃではなく、やりたいからやっていると思える環境をつくってあげること。
- ならなきゃになっている子に対して、無理して上を目指す必要がないこと、ほかの道もあることをそっと伝えられる人でいること。
- サッカーをやるにしても、やらないにしてもその子を応援できる人でいること。
こう思えたのはやり始める前だろうか?
それともやり始めてからだろうか?
正直微妙なところだ。
なんとなくはじめてしまった部分は少なくても必ず少しはあったと思う。
もちろんあるきっかけはあるし、なんとなく気づけていた部分はある。
ただ今こう思えているのだから、いいのだろう。
これも自分を肯定しているだけかもしれないけど、それでも今いいと思えているからいいのだ(笑)
とりあえずこんな風に自分の弱い部分、恥ずかしいと思っている部分を言えるようになったのは、成長なんじゃないかって思う、今この頃。
子どもに戻りたい???
こないだ見ている子どもにこう言われた。
「大人になんかなりたくない」
なんかグサッときた。。
そして大人の良く言うフレーズ
「子どもの頃に戻りたいな〜」
おそらく多くの成人の方々が思ったことがあると思うし、自分自身もそう感じることは多々ある。
友達なんかと「あの時〇〇が△して、おもろかったよな〜」とか「あの試合のあのゴールの瞬間忘れられないよな〜」みたいな昔話は、懐かしく、とても心踊るものだ。あっという間に時間は過ぎるし、昔に戻ったような気分になる。
些細な笑い話から、劇的なゴール(これも狭い世界かもしれないが笑)まで、別にどんなことでもいいから、振り返られるような出来事を共有できたことは、人生を豊かにしてくれるものだと思う。
でも今回言いたいのはこの2つのフレーズから、子どもが人生のピークであるのが当たり前だと思ってしまっている状況のこと。
それに自分は違和感と危機感を感じているということ。
年を取る、つまり大人になるということは、本来はたくさんの経験をし、知識と知恵を身につけることであると思う。時間をかけて、少しずつ自分と社会のことを理解していく。その中で自分はなにをするべきかわかり、日々に価値がでる。価値が出るというと大げさかもしれないが、意外と面白いんじゃないかなと思う。
だからこそ年を取るにつれて、つまらなくなるような人生はどこかで間違っているのではないかと自分は思う。
自分の考えるその原因は「自分を知らないこと」
自分が何をしたいのか、何をしたらいいのかがわからない。つまり自分の中の判断基準がぐちゃぐちゃなんだと思う。だから毎日が退屈でつまらなくなってしまうと自分は思う。
人は毎日9000回も決断をしているというデータが出ている。
その9000回の決断の理由が、
「みんながそうだから」とか、
「おすすめだから」とか、
「流行だから」とか
自分の判断基準のない、周りに流されてばかりの決断で埋め尽くされてる1日は、毎日は、人生はただ漠然としたものなんだと思う。
自分は自分の中の判断基準に照らし合わせて決断したり、直感を信じて決断したりする人生にしたいし、歳を取れば取るほど面白くなる人生にしたい。
こんなことを言っておきながら、自分の判断基準が明確じゃないと思う瞬間は多い。なにか言いたいけど、なにをいったらいいかわからない時がよくあるからだ。それはたぶん判断基準が明確じゃないから、言えないだけだと思う。判断基準というフィルターがあれば、それを通すだけで、自然と意見は出てくるはずだから。まだまだ若造だということである。
こんな話をしてきたけど、これが理想論なのもわかっている。年を取れば、責任も出てくるし、しがらみもそれなりにでてくるだろう。
それでも、理想を追いかけるのが、自分だし、それも自分の中の1つの判断基準なんだと思う。
教育にかかわっている身としては、子どもたちが「大人になりたくない」という言葉ではなく、「早く大人になりたい」「大人もけっこう楽しそうだな」と言ってもらえるようにしたいなと思う今この頃。
難しいことを簡単そうに見せるということ
先日シルクドソレイユの「キュリオス」を見てきた。素晴らしい演技はもちろんのこと、不思議な世界観のストーリー、そして要所要所に挟んでくるユーモアが様々な演技を繋ぎ合わせていて、あっという間の2時間半だった。
見てない人にはおすすめです!!
で、今回書きたいことは、後半戦に差し掛かったサッカーw杯とキュリオスとの自分の感じた共通点。
どちらも世界トップレベルのパフォーマンス。
一流のプレーであり、演技である。
そのことを十分承知で、あえて失礼なことを言わせてもらう。
「すごいけど、なんか俺でもできそう」
分かっている。そんなことできないことは分かっている。
でもなんかそう感じさせるくらい、演技者の方々は簡単そうにやってのける。力んでないというか、踏ん張ってないというか。
同じようにサッカーをテレビで見ていて時々思うことがある。
「これくらい、俺でもできる」
「俺ならこういう風にした」
あんまり言うと、なめてんのかと言われるのでこのくらいにしておく笑
(でもサッカーやってる人、やっていた人なら多少なりとも分かってもらえるのではないか?)
でも冷静に考えると、もちろんそんなことはない。
一流は難しいことを簡単に見せられるからであり、それを簡単にできると思うのは、大きな間違えである。
サッカーに例えると、試合中何度も20〜30mくらいのインサイドパスがあるけど、とても簡単そうに見える。でもそんなことはない。50cmもずれずにあのスピードで、芝生の上を滑らせるように出すのは、簡単そうで相当難しい。
トップレベルはパスがずれないなとつくづく思うし、そこの差が大きいのだと思う。
また選手がいる位置一つとったって、ボールの位置、相手選手の位置、味方の位置、またそれぞれの選手の特徴など、たくさんの複雑な要素を把握した上での、位置取りである。
あと中でプレーしている視点と外から見ている視点ではえらい違いだということも忘れてはいけない。
少し長くなってしまったが、改めて何が言いたいかと言うと、
一流は複雑で難しいことを簡単そうに見せる。でもそれは簡単なことではなく、複雑なことを理解して、またそれを反復して繰り返しやったからこそできることである。
そんな風に思うのは、最近いろんなことをわかったつもりになっているけど、ほんとは表面しか理解していないんじゃないかという気持ちになっているからなのかもしれない。
つまり本や記事で書かれたことはあくまで、読者にわかりやすいように簡単に説明されたことなので、本当の理解のためにはもっと、複雑でわかりにくいものを、時間をかけて、取り組まなければ得られないものなんじゃないかなと感じている。
それでも外からのものを意識して取り入れていかなければいけないと思うのは、本に書かれていることを、その本を読んだだけなら5%もわかっていないかもしれないが、過去のことと繋ぎ合わせたら10%になるかもしれない。
そんな風にこれが前のなにかに繋がったり、これからのなにかに繋がったりすることで、だんだん言っていることがわかると思うから。
複雑なことをシンプルに分かりやすく説明できる人になりたいと思うが、そのためには複雑なことを複雑なまま理解することがまず大切であり、やはり多くの材料を集める時間と努力が必要だ。
人生そんなに甘かない。
そんな風に思う今この頃。
日本代表
w杯が開幕して、10日が経ち、リーグ戦も2試合が終わった。
日本代表は昨日のセネガル戦も、2回のビハインドを負いながら、2-2の引き分けに持ち込んだ。前のコロンビア戦では、勝ったし、日本代表はw杯前の下馬評を覆す、結果を出している。
自分自身、今回の日本代表は惨敗すると予測していたし、多くの人がそう予想していたと思うが、いい意味で裏切られている。
これはなにが要因だろうか?
それはコロンビア戦のアクシデントによる退場があったからかもしれないし、準備期間がクラブよりも少ない代表チームだからこそ、コロンビアにしても、セネガルにしても、いまいちチームとしてのまとまりができていなかったことが要因かもしれない。
要因はひとつじゃないし、どれが一番なんてわからないけど、
それでも自分が思う一番の要因は、戦術を"みんなで決める"ことだと思う。西野さんは戦術を決めるとき、選手といっしょに決めると言っていた。
西野さんのとっている戦術よりも、ハリルさんのとっていた戦術の方が、現代サッカーの勝てる戦術だったと思うし、"正解"に近いことをやっていたと思う。
しかし、正解から離れた方がある意味"いいもの"ができるかもしれない。
そんな風に感じるのは前にこんな話を聞いたことがあるからだと思う。
「プロが作った綺麗でモダンな公園よりも、地域住民で話し合って作った公園の方が、多くの人が利用し、癒しを与えた。」
偉い人だったり、専門家だったりに正解を言われてやったものよりも、たどりつくものが多少不正解なものでも、その集団のメンバー全員で決めてやったものの方が、"いいもの"ができるし、愛着がわくと思う。
これはサッカーにも言えるはずだ。
みんなで決めることが根幹だし、スタート地点じゃないかなと自分は思う。
その上に、つまり自分たちみんなで戦術(規律)を作ることが大切なんじゃないかなと思う。
まぁそんなこと言ったって、なにが要因かわからない。
それでも自分の目には今の日本代表の方が、選手がイキイキしているように映るし、心を動かされるチームだと感じる。
最後にこのチームにまとまり(プレーのイメージの共有)が出てきたら、もしかしたらもしかするかも。
頑張れ!日本!!