「やりたいならやればいい。やらなきゃって思うならやめればいい。」
今回のタイトルは、自分が今はまっているドラマ「僕らは奇跡でできている」の7話で出てきたセリフ。自分がサッカーをプレーヤーとしてやっているときに、ずっと考えていたようなことをシンプルにすっきり表現してくれたような言葉だった。
このドラマのことを知らない人のために簡単に説明すると、高橋一生が演じる、一見変わった動物行動学の講師と、榮倉奈々演じる、自信がなくて、自分をよく見せようと頑張っている人との関係を中心に日常を描くハートフルドラマ。
なにげない言葉が響く、自分にとってここ最近見た中で1番のドラマだ。
話を戻す。自分にはサッカーしかないとどこかでそう思っていた。
今思えばそれはとてもリスキーなことだし、自分で自分の首を絞めることになるとわかっている。
でもその時はわからなかったし、ある意味肯定的にとらえて、一つのことに懸けている自分に酔っている反面、不安だったり心配だったりという自分もいたと思う。
認められたい。サッカーだけでは何としても認められたい。評価されたい。勝ちたい。
でも上には上がいる。
また見る人が変われば評価も変わることもある。
自分の努力不足ではあるが、満足できる評価は得られなかったと思うし、最後は苦しいサッカー生活だったと思う。
それは上に書いたような感情がやりたかったサッカーをやらなきゃいけないサッカーに変えてしまったからかもしれない。
ただこのような感情が絶対に良くないということではない。
こういった感情が素晴らしい選手を輩出する役割を担っていることは重々承知だし、この感情がなくなることはないだろう。
それでもこれが絶対に、全てが、正しいことではないということ。つまりこの感情が行き過ぎるとよくないことが人によってはあることも理解してもらいたい。
好きでやりたくてやっていたものが、やらなきゃになってしまった時のつらさ、悲しさ。なぜこれをやっているのだろうという虚無感。
自分はプレーヤーをやめるとき、セレクションを受けて落ちたからやめるといったけど、本心はほっとしていた気がする。「やめたいからやめる」といわなくて済んだと。
やらなきゃになってしまったサッカーを最後まで心の底から好きにはなれなかった。時々うまくプレーできた時は楽しかったこともあるけど、基本的には、大好きだった子供時代とはかけ離れていた気がする。
矛盾するようだが、今自分はサッカーの指導者をしている。
それは”やらなきゃ”ではない”やりたい”からやっているとちゃんと言える。一度離れたからこそまたそう思えたのだろうし、コーチという立場の違いももちろんある。プレーヤーとしてまたサッカーをしたいなとも最近また思うけど(笑)まだ少し先かな、、、
ともかく今回改めて自分がなぜ”やりたい”のか思い出してくれたと思う。
サッカーを教えるからには、技術だったり戦術だったりを教えることになる。
それは技術があったほうがサッカーを楽しくできる可能性が広がるだろうし、戦術を知っていたほうがサッカーを楽しくできる可能性が広がると思うから。
しかし時々教えていて、よくないのだが、子どもたちができないことにイライラしてしまうことがある。そして後になって後悔する。「あ、目的からはずれていたわ」って。
なぜ自分がサッカーの指導者を”やりたい”のか?
1つはサッカーが大好きな子のプレーを見ているのが楽しいから。うまくできたときの笑顔。点と取った時の笑顔。夢中になっている真剣な顔。本気で悔しがっている顔。どれもいい顔だと思う。
もう1つはやりたくてサッカーを始めた子が自分のようにやらなきゃになってしまわないように。もっと言えば、好きなサッカーをもっと好きに、楽しいサッカーをもっと楽しく思えるようにしたいと自分が思ったから。
自分にできることは、
- 安心してサッカーを楽しめる雰囲気をつくること。
- やらなきゃではなく、やりたいからやっていると思える環境をつくってあげること。
- ならなきゃになっている子に対して、無理して上を目指す必要がないこと、ほかの道もあることをそっと伝えられる人でいること。
- サッカーをやるにしても、やらないにしてもその子を応援できる人でいること。
こう思えたのはやり始める前だろうか?
それともやり始めてからだろうか?
正直微妙なところだ。
なんとなくはじめてしまった部分は少なくても必ず少しはあったと思う。
もちろんあるきっかけはあるし、なんとなく気づけていた部分はある。
ただ今こう思えているのだから、いいのだろう。
これも自分を肯定しているだけかもしれないけど、それでも今いいと思えているからいいのだ(笑)
とりあえずこんな風に自分の弱い部分、恥ずかしいと思っている部分を言えるようになったのは、成長なんじゃないかって思う、今この頃。