凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

2019年の学び ”想い”が先

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!

 

「2020年」

 

なんだか節目の年であり、時代が変わるような予感はします。

それは2020年といえば何と言っても、東京オリンピックがあるから。「普通の年とは違うな」と、自国開催である私たち日本人の多くはそう感じているのではないでしょうか。

 

そうそう。それに自分はこないだの二次募集でサッカーのチケットが当たったので、人生初のオリンピック観戦できる年です。それはわくわくしますよね。(ちなみに冬のオリンピックは記憶にないですが長野オリンピックで見に行っていたので初かは微妙なところですが)

 

皆さんはどうでしたか??(当たってないでしょう?羨ましいでしょう?)すみません少し自慢が入りました。

 

そのことで思い出したのですが、こないだ家族に「最近子どもっぽくなったね。あ、でもよくこどもと接しているからか」とボソッと言われました。普通にショックを受けました。

 

子どもを大人である自分の方に寄せるのが仕事のはずが、自分が子供の方に寄ってしまっては元も子もないです。気を引き締めて、やっていきます。はい。

 

でも皆さんこういうことないですか?「自分だけ!」みたいな特別を望んでいたり、そうなったら自慢したくなったりすることってここだけの話ありますよね??

 

自分はそう思ってしまうことは大人でもあると思います。ただ大人と子どもの違いはそれを口に出すか出さないか。そこだと思います。自分は口に出してしまったので子どもです。

 

話を「時代の変わる予感」のところ戻すとソフトバンクのCMで2020年に5Gを導入するということを言っていましたが、その影響力も大きい。あまり詳しくは調べていませんが、5Gによってできるようになることがたくさんあるようです。例えばドローンや自動運転、IOTなんか。しかしこれもまだ序の口のようで、これからますます進化していくようです。でも進化は何でもいいように聞こえますが、本当にそうでしょうか。自分はそうとも限らないと思います。だからここでの自分が使った進化の意味合いとしては、技術的に可能なことが増えるということです。ただできるからってやらなければいけないとはならない。このへんのことは今日のテーマなのでこのあたりにして、またあとで触れたいと思います。

 

また大学入試も大きく変わる予定で・・・いや変わりませんでしたね。残念です。

 

でもこういうところから自分は時代が変わるという予感を感じていますし、予感も感じていなければ時代遅れになるでしょう。ただ時代遅れにならない、つまり時代に合わせるということに関していうと気を付けなければいけない。どういうことかというと「時代に合わせること」とか、「必要性を感じて」とか、サッカーで言うと「戦術的に」とかは後の話で、その前に”想い”が来る必要がある。そしてその”想い”が強ければ下手でも、ハチャメチャでも伝わる。なによりその想いが違いを生む。それが今年一番の学びでした。

 

そして今から「なぜそう思うようになったのか?」を今年を振り返って書いていきたいと思います。前置きも少し長くなり、また今回は去年の総まとめということで、6000字程になってしまいました。長いかもしれませんが、辛抱強く読んでいただけたらと思います。

 

 

まず改めて簡単に今の自分の状況を説明すると、大きく言えば教育業界に関わっており、もう少し細かいところだと、ジュニアサッカー、学童に関わっています。ただ中心はサッカーであり、自分の見ている学年の中で一番大きな大会が去年の11月に開催されました。自分の中でその大会は今年一番のメインイベントとして捉えており、なにをするにも、その大会のことを意識していた気がします。

 

ではなぜそこまでその大会にこだわっていたのか?

悪い言い方をすればなぜそこまで執着していたのか?

 

それはまず客観的事実を整理すると、

  • 自分自身初めて大きな大会を監督として任された大会であること
  • その大会は県大会につながり、チームとしては県大会に行って当たり前という雰囲気があること
  • 父兄や他のチームなど、様々な人たちの「あのコーチどんなもんなのかな?」という目があること
  • 指導を始めた時からずっと見ている学年の大会であること
  • 来年はこの学年の子たちを実際に指導することはなくなるので、そういう意味では最後の大会であること

 

このような事実から

 

「結果を出して、僕自身コーチとして、周りから良い評価を得たい(得ないといろんな面で不都合が生じるという危機感も)」

「この子たちと、勝って喜び合いたい」

 

と思ったし、そのような強いプレッシャーや願望から、この大会は自分自身にとって死活問題であった。ゆえにこの大会にこだわり、執着したと思う。

 

一旦ここで自分の”想い”を考えるため、話を進める前に少し指導を始める前までさかのぼりたい。

 

指導を始める前、自分にとってサッカーは、勝つことがすべてではない気がしていたし、楽しむことが何より大切だと感じていた。ただ指導しはじめて感じたのは、楽しむことは大切だけど、楽しむためには必死になること、チームがまとまることは不可欠だということ。だからこそ勝ち負けという結果は結果にすぎないからいいんだけど、”勝ちたい”と思うことは大切だし、不可欠だと感じた。勝たなくても楽しめばいいなんて思ってやった試合に楽しみや感動は見いだせない。これは今でも基本的に正しいと思う。

 

ただ今振り返ってみるとここで問題だったのは、”勝ちたい”が暴走してしまったこと。勝つことが一番の目的になってしまったこと。県大会で勝って、あの子たちと喜び合いたかった。それは本心だ。だからこそ、細かいことまで言ってしまった。少々のミスを気にしてしまった。あの子たちのレベルを超えることまで要求してしまった。自分の頭の中ではできると考えていることができないと苛立った。要求が多すぎた。子どもの方をちゃんとみてやれなかった。子どもの目線で考えてやれなかった。自分自身が焦ってしまっていた。頑張って、修正点を直そうと指導するほど、子どもたちの心は離れていってしまった。すごく後悔している。

 

でもそういうことに県大会10日前くらいに少し気づいた。それで子どもたちの声を聞いたり、要求を減らして、シンプルにし、のびのびプレーできるようにしようとした。

 

そして県大会前日、「君たちといい試合、後悔のない試合をしたい」ということを子どもたちに感情を込めて話したときには、みんな聞き入ってくれた。あの時、子どもたちのこちらに向ける視線は忘れないと思う。単純に嬉しかったし、まだ子どもたちの心は完全に離れてしまってはいないなと思い、ひとまずホットし、「まだ望みはある!」と希望を持てたのを覚えている。

 

あと伝えたいことが明確かつ強ければ、下手でもハチャメチャでも伝わると感じた瞬間でもあった。

 

でも県大会には行けたが、結局結果は出なかった。

遅かった。気づくのが遅すぎた。

子どもたちは頑張ったが、100%の力は出し切れていなかった風に自分の目には映る。

それが悔しいし、申し訳なかったなと感じる。

 

 

そうやって後悔の念を捨てきれず、自分自身切り替えができていない状況で、県大会後最初の練習を迎えた。

 

その練習で自分の意に反して子どもたちに心を動かされてしまった。

 

みんなが必死で夢中で、どちらも勝ちたい気持ちが前面に出ていて、その中でただがむしゃらにやるのではなく、意図をもって、相手と駆け引きしたうえでのプレーが何回も出た。試合は引き分けだったと思うが、「よし終わりー!」と自分がいったら、子どもたちから「まだ!!」「もうあとワンプレー」とそこら中から声が上がった。ほんとに楽しかったのだろう。いい顔をしていた。その次の週の練習もよかった。試合で負けてたチームの子に「練習楽しかった?」と聞いても、素直に「楽しかった」と言えるのだから楽しかったに違いない。

 

その時に初めて感じたことではないが初めて自覚したと思う。自分は子どもたちに夢中になれる機会を、そこから得られる大きな心の動きを、そしてそれを仲間たちと共有出ることを経験してほしいと思っていることに。そして自分自身そういう経験をしている子どもたちの姿を見たいと願っていることに。またコーチとして密に携わって見れた時、より心を大きく動かされていて、それを望んでいるということに。そしてなによりこれこそが自分の一番の”想い”なんだということを自覚した。

 

「結果を出して、僕自身コーチとして、周りから良い評価を得たい(得ないといろんな面で不都合が生じるという危機感も)」

「この子たちと、勝って喜び合いたい」

 

という県大会に対する”想い”は今回自覚できた根本的な”想い”があったらまた変わっていたに違いない。もちろん勝負の世界であり、結果や評価というのが付きまとう以上、きれいごとばかり言っていられないこともわかっている。それでもチームがこの大会から得られたものは、表現としてはあまりに抽象的で薄っぺらい感じになってしまうが、絶対にもっと”いいもの”になっていたと確信している。だからこそこれだけ後悔しているのだと思う。

 

そうは言っても県大会が終わって2か月の間に10数回の練習をしたと思うが、この気づきを忘れてしまっていたこともある。またよからぬ方向に進みかけてしまったこともある。でもここにまた戻ってくればいい。戻ってくる場所を見つけられた。

 

サッカーの指導に関して言えば、どんなこともこの”想い”に反しない限り、良い方向に進むことになる。

 

それを抽象度を上げ、視野を広げれば、他のことにも適用できる。

 

どんなことでも、自分の根本的な”想い”はなんなのか?それをしっかりもつこと、意識することは大切だということ。

さらにいうとその強い想いは必ず人に伝わるということ。

 

もちろんそこから現実問題として何かをしようとか作ろうとか何か人に行動してもらおうとするなら、そこには技術や論理などが必要だし、スキルが高いほど、うまくいきやすい。

ただそれはあくまで手段に過ぎないということ。いくら技術があっても、想いがなければうまくいかなかったり、よからぬ方向に行ってしまったり、それなりの結果しか出なかったりする可能性が高い。逆に想いがあって、それが強ければ、なんだかんだ伝わる、仲間は出てくる。

そこから現実問題としてどう解決していくかというスタートラインには立てるし、想いがあれば、解決するためにいろんなことに気付き、取り入れていくこともしやすいと思う。

 

だからこそ”想い”を大切にしたいし、”想い”からスタートしたい。

 

 

そんな風に考えてみると、いろんなことがこれと同じようなことを言っていたとわかる。

 

例えばこないだの紅白歌合戦ではこの番組に出ているからにはそれなりの歌唱力やダンスのスキルを持ち合わせているのだと思う。でも自分自身が心を動かされたのは、リトルグリーモンスターと菅田将暉とちょっと別の意味になるけど欅坂だけだった。自分が感じることができていないだけかもしれないがこの3つのグループだけはどうしても伝えたい、表現したいことや想いがあった風に見受けられた。ゆえに自分は心を動かされたと思う。

 

紅白で言えば秋元康さんがAI技術を使って美空ひばりさんの新曲「あれから」を作る過程で感じたこととして、「想いを具現化するのがテクノロジー。つまり先に”想い”がこないといけない」と言っていた。

 

あと2019年の11月に静岡で大道芸ワールドカップが開催されて見に行ったが、その中でおととしのチャンピオンの演技を見ることができた。そのチャンピオンが最初に発した言葉は「ようこそ俺の世界へ」だった。

 

アルゼンチンでサッカーランセンスの取得を目指し勉強されている河内一馬さんは「芸術(アート)を補助するのが科学(テクノロジー)」と言っていた。

 

便利は人を不幸にするという本では「技術的に可能だからやるのではない。やらなくてもいいという選択肢はある」みたいなことを言っていた。

 

考具という本の中に川崎さんの、「デザインはわがまま→思いやり」という言葉があった。

 

サピエンス全史という本では「唯一私たちが試みられるのは、科学の進もうとしている方向に影響を与えること」と言っていた。

 

はじめての哲学的思考法という本では「意味の世界は事実の世界に原理的に先立つ」と言っていた。

 

リバプールのクロップ監督は「戦術はとても大切だよ。戦術なくしてかつことはできないけど、強い気持ちが違いを生み出すんだ。」と言っていた。

 

僕にはいろんな人が同じことを違う表現で言っているように感じる。

そして本質をついているのだと感じる。

 

みなさんはどうでしょう???

 

 

 

最後になりますが

いろんな人がこのようなことを言っています。

 

「人間はようやく様々なことの本質ついて考えざる負えない状況に立たされた」と。

 

いや言い方を変えましょう。

 

「人間はようやく様々なことの本質について考える環境を与えられた」と。

 

「人間とは?」

「人生とは?」

「心とは?」

「サッカーとは?」

「教育とは?」

 

「自動運転車の事故はだれが責任を取るのか?」

「タバコを吸って使えなくなった肺を、再生医療で作り、入れ替えるのはやっていいのか?それはもともと肺が悪い人と同じ金額でやるのか?」

 

そう。答えのない問題にすべてではないが僕たちは納得解を出していかなければいけない場面が出てくる。例えば自動運転車とタバコと肺の問題なんかは納得解をださないといけない問題だと思う。そうしないと多様な個人の集まりの社会はうまくまわっていかないから。

 

個人としては選択肢が無限に増える多様性のある世界で、自分が納得できる生き方を決めて行動していかなければいけない。いや、していかなければいけないと言ったが、した方がいいと言いなおす。集団の場合は決めないといけないが、個人の場合は決めなくて他者は困らないし、決めるのは個人の自由だから。ただ決めてやっていかないと楽しく、幸せに、豊かに生きていくことは困難になると思う。その根拠になるものが2つあるので引用してみます。

 

1つ目は糸井重里さんのインターネット的より

「これからの時代は、大きさは別にして、あらゆる場面で立候補しないで生きていくことが、困難になるでしょうか。どっちの道に行きたいのか、何がいやで何がしたいのか、何を美しいと感じ、何をみにくいとと思うのか、そういったことを自分なりに生きるための『軸』として持っていないと、他人とリンクしたり、他人の協力を得られたりできないでしょう。」

 

2つ目は藤原一博さんの本を読む人だけが手にするものより

「成熟社会では、『それぞれ一人一人』が自分自身で、世の中の流れと自らの人生とを鑑みながら、自分だけの幸福論をきめていかなければいけない」

「『人生のとらえ方』とは、いわば人生の幸福の実現のためにどういうテーマを持ち、どういうベクトルに向かって進んでいくかということだ」

 

だから自分は”想い”をしっかり持ちたい。

 

今の自分の想いというかテーマのようなものは

 

  • 自分の心も人の心も動かす(動かされる)こと
  • 多様な他者とより良く生きていくこと

 

でもこれはまだ洗練されていないし、強さが足りない。

だからこそ2020年はこのテーマに沿った”想い”しっかり育てていきたい。

そしていつかこのテーマに沿った”想い”を今は教育という舞台で考えているが、どんな舞台になるかは正直わからない。でもこのテーマに沿った"想い"を実現、表現していきたいと思う今この頃。