凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

エスパルスの試合を観て感じたこと。

つい先日の休みの日に地元のクラブであるエスパルスの試合を友達と観に行った。自分たちは共にサッカーの指導者をしている。だからどうしても、コーチ目線というか、戦術のところに目がいき、「今のこうした方がよくない?」「あの選手の今のポジショニングどう思う?」「今みたいに子どもたちもプレーしてくれたらいいんだけど、子どもはこうなっちゃうよね」「こういうことは子どもに教えておきたいね」みたいな会話ばっかりしていた。でも楽しかった。専門性を深めると全部を出して話せる相手は限られてくる。だから自分はこうやって好きなこと、夢中になっていることで議論できた(大げさかもしれないけど)のが楽しかった。

 

ただ家に帰るまでの道のりで、楽しかった充実感と共になんだか何かを失った喪失感のようなものも感じた。

 

3-2の好ゲームでエスパルスの試合は勝利に終わった。子どもの頃なら大喜びして、ご機嫌で家に帰ってきたと思う。でも自分はエスパルスが勝ったことにあまり喜んでいなかったような気がする。また点が入った時に周りのサポーターは立ち上がって、声を上げて喜んだ。でも自分たちは冷静にそのゴールを分析して、友達と意見を言い合っていた。それはそれで楽しかったけど、なにか引っかかるものがあった。

 

自分で言うのも何だが、自分はあのスタジアムに来た15000人のサポーターの中でも戦術に関して言えば、上位1%に入るくらい詳しかったと思う。なのに残りの99%の人の方があの試合を純粋に楽しめていた。1つのゴールに喜び、1つの失点に悲しみ、相手のファールがあったら、審判に体を乗り出してアピールし、ノーファールになったら、審判に罵声とブーイングを浴びせる。あの試合を自分事として捉え、プレーしてる選手とスタジアムに来ている10000人以上のサポーターとその時生まれた感情を共有していた。

 

それに比べて自分はプレーヤーやサポーターの方との間に線を引き、感情の起伏もなく、冷静に対象として、他人事として、俯瞰して、あの試合を見ていた。

 

だからこそ羨ましかった。

ちょっと前の自分なら、あいつらなんもわかってないくせによくそんなに喜べたり、言えたりするなって思ってたかも(笑)

何もしていないのにいい思いしてるのが許せなくて。

 

でも今は主観的(自分事)になることと客観的(他人事)になることの両方とも大事で、またそのバランスを取ることが何よりも重要だって分かってるから、「あー、これに自分は羨ましがるんだ」って素直に感じられる。

 

生を実感できるというか、心が大きく動くのは主観的な経験の中だと思うし、客観的に捉えることに比べて重要に感じられる。でもだからといって過剰なると、見える世界も限られてくるし、あまりに刹那的過ぎる気がする。物事をありのままに見るため、冷静な決断を下すためには、客観的になること不可欠である。

もう一度言うけど、つまりそのバランスを取ることが何よりも重要ってことだし、両方大事にするからこそ見える世界があると自分は思う。

 

最後にやっぱりサッカーってすごいなと思うと同時に、つくづくサッカー選手が羨ましいし、一度でいいからあの大歓声の中でプレーしてみたかったなと思う今この頃。