凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

「ままならないから私とあなた」を読んで。

「時代の変化は淘汰よりも共存という言葉に言い換えられる」

この一文は朝井リョウさんの「ままならないから私とあなた」からのものだ。

「死にがいを求めて生きているの」から始まり「もういちど生まれる」「何者」そして「ままならないから私とあなた」と立て続けに朝井リョウさんの作品を読んできた。

この人はあまり自分で認識したくない、見ないようにしていたところをうまく言葉にして伝えてくれる。だからこの人の作品は正直読んでいていい気分にはならないけど、なんだか読んでしまう。

さて本題に戻るが、「ままならないから私とあなた」は無駄を省き、効率重視で新しいモノを作り続けたい薫と人間味や無駄なことの中に大切なことがあると信じる雪子の幼少期からの成長を描いた物語である。

自分はここ2年くらいよく合理化や無駄のことに考えてきたつもりだし、よくこのブログでも書いてきた。

自分は無駄が大切だと主張してきたけど、最近また少し変わってきて、それをうまく表現してくれていたので今回それについて少しまとめてみたいと思う。

人にはある程度持って生まれて、好みや向き不向きがあるのは誰も疑わないと思う。
そして様々な経験をその好みや向き不向きを通して経験し、そこからなにか発見し、学び、糧とする。それは自分や周りのことを理解するための材料を増やしていくことだ。考えるためには材料が必要である。
でもそれは自分が経験したことでしか、自分含め、周りのことを理解できないとも言えると思う。そこが今回のポイントでもある。

 


絶対的な存在、それは両親や教師、コーチ、先輩、プロの選手、芸能人、その他にもいろいろあり、人それぞれ違うと思うが、その人たちの言葉や行動は、時にその人に大きな影響を与え、指針を作ることがある。
また成功体験、失敗体験、それ以外にも様々な経験からも価値観や判断基準、指針が作られる。
ただこの本の言葉を借りるなら


「自分の人生なんて、成功例ではなく、ただの一例に過ぎない」ということだ。


自分がたまたまそういう経験をしたからかもだし、自分に合っていた、合っていなかっただけかもしれないし、時代的にかもしれないし、年齢的にかもしれないし、技術的にかもしれない、日本だからかもしれない、男だからかもしれない。ほんと一例に過ぎないのだと思う。でも自分にとってはそれがすべてである。


だから今回の話であれば、他の選択肢があることを知らされたり、より便利にできると知らされたりすると、今までの努力や時間はなんだったのかと思わざるおえない。だからこそ新しいもの否定し、自分を守るようになるのもある意味仕方ない。なぜならもう後戻りできなかったり、今までの努力が意味がなかったと認められる勇気がなかったり、選択肢を増やしただけという新技術はビジネスの世界では、それを使わざるおえないようになったりすると思うから。反対したいから反合理主義になったり、そういうやり方が正解だと思い、合理主義になったりすることもあるし、もちろんこの他にも理由はあるし、持って生まれたの性格かもしれない。

 

他もあることがきっかけだったり生まれつきだったりはするかもだけど、アウトドア派とインドア派、田舎派と都会派、社会主義自由主義、ストイックとマイペースみたいに分けられる。でもおおよその人が完全にどちらかに分かれるわけでもないと思う。


朝井さんの言葉を借りると

 

「右と左に分けようとすると、1ミリずつ左右にズレている人たちだって、1キロ離れている人たちのところまで、ザッと分けられる」

 

「集団の中のグラデーション」

 

つまり田舎がいい人だって、東京に観光に行く時だってあると思うし、インドア派の人もバーベキューしたい時もあるはず。なのにこの世の中はどちらか一方に分けようとする。

 

 

これは自分と他者が相反していることだけではなく、そもそも自分の中にも、相反する欲求みたいなものがあるということ。

 


しかし反合理主義と周りから思われたり、なにかをきっかけにそう自分で思い込んだら、そんな自分を貫くために合理的なことを求めている自分を見ないようにしたり、無理やり排除したりする。

 

それは中途半端がダサいと思っていたからなのかもしれない。でもほんとはそんなことをせず、共存するというか、両方やってもよいのだろう。そっちの方が息苦しくないし、楽しい。それに別にダサくはないと思う。

 

 

逆にどちらかに振り切れてしまうと、反対側を許せなくなる。つまり批判したくなる。なぜなら、反対側を認めてしまうと、自分がそこまでこだわっている理由がわからなくなるから。自分を否定することになるから。

 

そういうこともあって、批判すること自体がやりがいになることも多い。伊集院静さんの本にこんな言葉があった。

 

「許せないやつが人生を豊かにする」

 

たしかに自分もそんな経験があるからわかるし、エネルギー湧くし、やりがいみたいなことになるし、正義感をもって取り組んでますみたいになるけど、これって不純な理由が多いし、結局対立を深めるだけで、根本的な解決にはならないんじゃないかなと今回思った。

 

そもそも相反するものって、互いに補い合い、互いに高め合うものも多いはず。

だからこそ相反するものを対立として捉え、互いが互いを淘汰しようと攻撃するのではなく、共存し、補い合い、時に干渉しないこともあれば、可能であれば高め合う方法を探ることがあってもいいと思う。

それは自分と他者だけでなく、自分の中にある相反するものも含めて。つまり無理やり振りきるのではなく、自分の中で相反するものがあっても受け入れ、うまいバランスを探し、それに合う環境の中で生活できるよう試みる。逆に合わないところは受け入れるけど、受け流すようにすることが大切だと思った。

 

今回の非効率的な人間味か合理主義みたいなところで言えば、やっぱりある程度便利になるというか、無駄がなくなることもいいと思う。だけど、そうじゃないところ、こだわりがあるところはいくら、「お前はなにをそんな無駄なことやってんだ!」と言われてもそうしていたいし、そういうモノやコトをもっている人になりたいと思う。

 

ただ最後にこうやって対立し、淘汰しようとすることを批判しているということは、自分がある意味矛盾しているということを俯瞰して見ていられ続ける人でありたいと思うと同時に俯瞰して見られる人はどんなことも他人事として考えてしまう冷めた人とも思え、矛盾にさらに矛盾が重なり、なにがなんだかわからない今この頃。