凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

自分にとって教えるということ。

人になにかを伝えたり、教えたりすると、理解できていたと思ったことが思ったよりあやふやだったり、根拠や背景が分かっていなかったりしたところ気づけることがあると思う。

 

「あれ、ここの根拠は?」とか「どういう背景からこれがあるんだろう?」とか自分の中で疑問が出てくる。

また質問も自分がどれくらい理解できているのか、どこが理解できていないのかを知る指標となる。

 


自分がよく関わるのは小学生年代の子たち。
だからこそあいまいな理解で説明すると、子どもたちに理解してもらえない。
またこの年代だからこそ、素朴な疑問や本能からの言動はシンプルかつ正直であるが故に本質的で根本的な問いを生んでくれる。


例えば

「なぜ勉強するのか?」

「大人って楽しいのか?」

「なぜ花は蜜を作るのか?」

「なぜ人を馬鹿にしてはいけないのか?」

「なぜカラスは死んでしまったのか?」など。


勉強するのは将来役に立つからという、自分たちも納得できない答えで子どもが納得するのか?
「自分がされて嫌なことを人にしない」はよく聞くけど、自分がされて平気でも、その子にとっては平気じゃないこともあるからどうなんだ?


他のことだって、何気ないことだけど、疑問に思うことだけど、普段はあまり考えないもの。そういうことに気づかしてくれる。

 


他にも子どものサッカーでは当たり前のことが当たり前だと思っていないから、大人なら感覚でわかるところを、より根本から具体的にわかりやすく説明しなければいけない。自分もよく説明していて、「あれ、うまく説明できないな」ということがあるし、それは理解が不十分だからなのだなと思う。そこからサッカーをより知れる。

 


そんな風に物事を他の視点から見るきっかけを子どもたちから与えてもらうことで、歳をとれば取るほど新鮮さを失う世界の中に新鮮さを取り戻すことができる。

 

新たな側面に気づくこと、なにかとの関連性やつながりに気づくこと、そういったことを通して、わかりきった繰り返しの日々に変化を加えることができる。そうじゃなかったら、つまらない、面白みのない毎日になってしまうと思う。

 

 

最後に頭で理解しようとすると分からんけど、なんかいいなと思うし、今回の内容と関連のありそうな、村上春樹さんの海辺のカフカの一文を紹介して終わりにしたい今この頃。

 

 

"退屈でないものに人はすぐに飽きるし、飽きないものは大体において退屈だ"