凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

言語化のいたちごっこ

言語化。最近よく聞く言葉だ。
自分もわかりやすく言語化できる人のことをカッコいいなとと思う。
しかしそこになんとなく違和感を感じることがあった。
 
だから自分なりに整理して、それを言語化してみた。
 
まず現在、自分のまわりには(世界中には)インターネットの発達で、自分が言語化できないモヤモヤを言語化してくれる人がたくさんいる。ただその人たちが知っているなにかとそこから自分が得たものは違うと思う。
 
それは知っているということにある程度段階があるからだと思う。大きくわかると3つの段階があると考える。
 
1.そもそもその知識自体を知っているか?
2.言語化できる内容をどう知っているか?(どういうつながりで知っているか)
3.言語化できない、暗黙知と言われる感覚としての部分をどれくらい知っているのか?
 
 
 
具体的な例として「本田圭佑」を例に見てみると、
第一段階としては、「本田圭佑」という人の存在を知っているかである。
 
第二段階として、「本田圭佑」がサッカー選手であること、どこでプレーしているか、オーストリアのクラブのオーナーであること、カンボジア代表の監督であることなど、「本田圭佑」にまつわることを知っているのか、そしてそれにまつわることであるサッカーについて、日本について、あるクラブについて、一緒にプレーした選手について知っていれば、より深く「本田圭佑」について知っていることができると思う。でも知っているだけでなく、その散らばっている知識に関連性を自分の頭で考えないともちろん意味はないが。
 
第三段階として、「本田圭佑」と会って話したことがあったり、プレーを一緒にしたりした人は、そういう言語化できない以上のことを実際の経験から知っている。また「本田圭佑」以外の人のそういうことを知っていることも、「本田圭佑」を知るうえで大切なこと。
 
もう一つたまたま今朝食べた「納豆」で説明してみる。
第一段階としては、まず「納豆」の存在を知っているかどうか。日本人はほとんど知っていると思うが、幼い子は知らないと思うし、外国人の中には知らない人も多いだろう。
 
第二段階として、「納豆」が大豆からできていること、発酵させて作られること、いつできたのか、なぜネバネバするのかなど、「納豆」にまつわることや、その他の発酵食品、納豆ができたころの歴史背景などを知っており、そこにつながりを持たせていること。
 
第三段階として、「納豆」を実際に食べたことがあったり、もっと言えば様々な種類の「納豆」を食べたことがあり、感覚として、「納豆」を知っていること。またほかの食品についてより多く食べ、感覚として知っていることも第三段階として、大切なこと。
 
このように知っているには段階があり、テーマである言語化は、知っている中の一部分である。
 
つまり、
知っていること= 言語化されたもの + 暗黙知
 
 
そういう風に考えていることを前提に言語化されたものを知る場面のことを考えてみたい。
「あることを体感的には知っていたけど、言葉にするとありふれてしまい、なんか違う」という時なのか、「あー、なんかこの感じいいな」「この角度から見るなんて知らなかった」と思う時だと違う。
前者はそれなりに言語化してくれた人とわりと近いことを知っているかもしれないが、後者は言葉としてであったというような感じだと思う。
 
ただ後者の場合もあとから、経験して「あー、そういうことだったのか」とより深く知ることができる。もしその言葉を知らなかったら、その経験をスルーしてしまっていたり、その経験からなにかを知ることができなかったりするかもしれない。だから後者も別に悪いわけではない。
 
だけども後者の場合勘違いを起こす場合があるので注意が必要。
 
例えば本を読んだ時のことを考えてみる。
基本的にあるテーマについて専門家が書かれた本ははポイントを掻い摘んでわかりやすく書いているし、小説はあまりにもりあるなものもある。だから分かった気になってしまうことが多々ある。しかし本はそれなりに広いターゲットに対して、全体像が分かるように書かれていたり、多くの人が共感することを丁寧に書かれていたりするので、全部知った気になってはならないと最近思う。
 
時々知った気になって話す自分がいる。でもあとから、その根拠を知らなかったり、その知識が単独すぎたり、薄っぺらいなと感じ、恥ずかしい思いをすることがある笑
ただそういいう経験を通して、より深く知っていくんだなと感じる。とは言っても、すべてを知った気になって話すのではなく、まだまだ知らないことが多いと頭の中に入れて話したい笑
 
 
こんな風に言語化について考えてみたり、本を読んでみたりする自分は単純に”知識欲”がまずあるのだと思う。
でももう一つ欲だけでなくて、論理的に計算してみて、行動したいという自分がいるから、必要だと思い、こうしているのだとも思う。それはサッカーから離れたときに、次どうしようかということを考えたら、世界がすごく広がったから。いろんなことを知り、その中に楽しさ、可能性を感じたからだと思う。
 
その過程には知っていることが広がることと、それを言語化していくといういたちごっこがあった。知っていることと言語化できることの差が広がることもある。またいろいろな人の考えを知り、価値観を知り、表現方法を知るということは、自分が考えたもの、作ったものが、他人の真似ではなく、ほんとうに自分の中から出てきたものかどうか分からなくなっててしまうこともある。
 
そんな風に知っていることを広げ、それを言語化していくという過程には、プラスとマイナスどちらも含まれていると思う。それは便利さを追求していく過程にプラス面もマイナス面もあるのと似ている。
しかし、前者はプラスの方がマイナスよりも大きいのに対して、後者はプラスよりもむしろマイナスのほうが大きいと思う。
 
だからこそ、その過程を信じて楽しみたいし、そこに価値を、そして意味を見出していきたいと思っている。
 
 
そんな自分が今思うのは、第三段階の暗黙知、つまりどういう過程の中で、どういう物語の中で、どういう経験の中で知っているかがこれから重要になるんじゃないかということ。
 
なぜなら答え(言語化できること)はインターネットがあるし、アルゴリズムがよりよくなるから見つかりやすくなる。また知ることが簡単になるからだ。逆に言語化できないものは伝えることが難しい。つまり真似することが難しい。だからこそ、その部分を知っていることが大事になってくるはず。
 
 
「言葉で表現してください」と言われたら、職人と見習いも同じようなことを言うかもしれない。特に言葉で表現することが得意な見習いだとなおさら。
でも知っていることの差はあるし、たぶん言葉の重みが違う。皆さんもそう感じた経験があるでしょう(今こう言っている自分の言葉が軽いと感じているのはさておき。笑 )
 
そしてこれからはだからこそ"人間"なのだと思うし、人間らしさ、つまり言語とか数値とか以上のことをしっていることこそ、大切なことだと思う。
自分はそういうことをうまく表せられない。だから糸井重里さんの言葉を借りると
 
 
「人がすることに、人は喜ぶ」
 
ということ。
 
自分はただこれをいいなと思う。
 
 
ここでようやく最初の問いに戻りたい。
言語化に対する自分の感じる違和感は言語化できなければ知っていないも同然とか、表面だけなぞった言語化は薄っぺらいなと感じることなんだと思う。
そしておそらく前者については世の中に対して。後者については自分に対してなのだろう。
最近”人間味”が少しなくなってきてしまったなと、”薄っぺらいな”と感じ、進む方向を少し修正しないといけないなと思っている。
 
 
 
じゃあ自分はこれから具体的にどうするべきか?
 
矛盾していると思われるかも知らないが、まずは自分の価値観や、まわりのことに対して、自分の考えを言語化できるようにしていきたい。
 
理由はまず第一に言語化できないということは、皆に自分の考えを伝えられないということ。つまり共感や協力を得難いということ。それはもったいないことだと思うし、よく生きていくには必要なことだと思うから。
 
第二に言語化することは暗黙知を知ることの土台になるし、そこから深めていくことができるようになると思うから。
 
そのうえで実際の経験を通して知っていることに、もっと言えば限りなく多くの失敗や成功という経験を通して、言葉にできない部分も知ることが大切だと思う。もちろん経験するだけでなく、"考える"ということを通して。つまり自分の中で試行錯誤を繰り返すということ。
 
最後に前の記事を見ると、「薄っぺらいな」とか「視野狭いな」とか「ちょっと背伸びしたな」とか思う。でもそれはそれで必要なことだとも思う。来年の自分はそんな風に今回の記事を「薄っぺらいな」と思えるように頑張ろうと思う今この頃。