凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

「今」「自分にとって」「幸せとは『考える』ことによってもたらされる」  2018の学び

あけましておめでとうございます。
ほんとは昨年書きたかったけど、少しぐらい遅くなってもいいでしょうと自分を甘やかしてしまいましたが、去年のことを振りかえっていきたいです。
 
 
題名にあるように「考える」ことが今年のテーマであるというか、ここ3年くらいのテーマであったと思う。
しかしそれを今年はある程度形として話せるようにと思ったし、大事な学びだと思ったから、今から書いていきたい。
 
 
自分は父からよく「考える人になりなさい」とよく言われてきた。
最近は考えすぎで、逆に心配されるくらいだが(笑)
とは言っても、つい3年前くらいまでは考えてきたつもりだったが、考えていなかったのかもしれない。
 
いや、考えてはいたが、世界が狭すぎたし、方法の種類は少なかったし、たいしたことではなかったと思う。もちろん今が世界を俯瞰して見れるようになったということではないが、前に比べたらだいぶましになった。
 
それはサッカーとの関係を考えることがきっかけだった。
 
サッカーを外の世界から考えたり、自分にサッカーがなかったことを考えてみたり、そういった視点を持てるようになってやっと本格的に「考える」ことができるようになった。
 
自分はつい最近まで、自分が見ている世界と、自分の中を探せば、世界のことがすべて理解でき、すべて解決できると思っていたし、外の人が自分のことについてあれこれ言うなと思っていたから、ほんと扱いにくい奴だった思う(今もそうかもしれない)。
 
 
そういうやつがさっきのタイミングでようやく無知さを認めて、自分の偏見を認めて、そういった偏見を持たない人、世界を俯瞰して見て話せて行動できる人、かつ自分のことをより深く知っている人、になりたくて、いろいろ勉強したり、考え始めたのだと思う。 
 
つまり世界全体を俯瞰してみて、自分をどう活かしたらいいか、そしてどうしたら幸せになれるか知りたかったのだと思う。
 
 
しかし結論から言うと、今でも最後に自分のことを決めるのは、誰でもなく自分であり、偏見を持った人でこれからもあり続けると思うし、幸せとは「考える」ことにことによってもたらされる(これは3年前くらいにわけもわからず書いた、出口浩明さんの言葉なんだけど、今何となくわかる気がする(笑))と信じている。
 
 
ただそれは過去を引きづって、その周りをウロチョロ散歩していて、至った結論ではなく、自分の中ではいろいろな道を歩きながら、最低一周はして至った「仮止めされた変化可能な結論」だと思っている。
 
 
 
ここからは今書いてきたことをもう少し具体的に書いていきたい。
 
まずサッカーの外にも世界があるということを、本やネット、友達の話から知った。というか、ちゃんと認識した。
今までも聞いてはいたのは間違えないが、興味がないので、右から来て左にそのまま抜けているような感じであったと思う。
 
 
最初新たな世界を知ると、隣の芝生は青い現象ではないが、外国のいいところに目がいき、日本はすべてダメなように感じてしまうのと同じで、これこそ真理だと勘違いしてしまうことも多かったと思う。
 
もう資本主義はだめだとか、大企業はブラックだとか、日本の教育はもう古いとかそんな風に。
 
おそらく自分はそれのほんの一部でだったり、いいところだけや悪いところだけだったり、片方しか見ていなかったりしていたのに、それがすべてだと思い込んでしまっていた。
 
 
教育に携わっている身として、少しだけ個人的な意見を言うと、少し古くなった教育法を変えようとしていて、良い動きだなと思うけど、結局社会に必要な人を育てるために変えるのが、主な目的であれば、それはいずれ今と同じ状況になりそうだなと個人的には思ってしまう。
今回のテーマは教育ではないので、このへんにして、話を戻す。
 
 
深めたり、広げたりすると、それが勘違いであるということや、偏見だったということを理解できる。視点は高くなり、視野は広がった。
まぁ偏見の度合いがましになっただけだか。
 
つまり同時に、どこまで行っても、何かの環境の中で生きていくことになる。
例えるなら家族のルールの外には、地域のルールがあり、その外側にら日本の法律があるし、その外側には資本主義とかそういった考え方みたいなものもあるということ。
 
そして外側に行けば行くほど、その内部には矛盾が隠れていることが多い。
 
例えば自由を大切にすれば何事もうまくいくとは限らず、不平等を作り出したり、相反する欲求を抱いてしまった時にどうするかもわからなかったり、ある価値を台無しにしてしまうという矛盾をもっているみたいな。
 
 
自分は、日本で生まれて育ってきた20代の男であり、例えば、民主主義の自由主義の環境で生きてきた。
だからこそ、この環境が当たり前だと思うし、自然で、不変だと思い込んでいた。
 
もっと身近な例だと、イントネーションが微妙に違うことがあったり、友達とやるドッチボールのルールが違ったり、友達の家で食べるカレーの玉ねぎの大きさが違ったり、どれも自分の経験がすべてだと思い込んでいた。
 
しかしどれもある一つの考え方や見方に過ぎない。
 
「私たちは一人残らず特定の歴史的現実の中で生まれ、特定の規範や価値観に支配され、特定の政治的制度に管理されている。」と聞いてまさしくだと感じた。
 
そしてこの現実を当たり前だと感じ、それをすべての人がそう感じていると思い込んでしまう。(一般化のワナ)
 
 
だからこそ意識的に、自分の考えや社会のルールについて疑い、探り、新たな可能性を見出し、選択する権利を得られるようにすることは大切なことだと思う。
 
そしてその中から選んだものについて、これこそ真理であり、完璧なものだと思い込まず、独善主義(自分こそ、私たちこそ正解であり、他は間違ってるいる)に陥らないことが大切だと思う。
つまり3つのことを頭に入れておく必要があると思う。
 
1つ、ほかの考えからいいところを取り入れること。
 
何個か具体例を出すと、
現代の悪いところはなくしていき、過去のいい部分は再度復活させようとか。
インドア派だから外にはいっさい出ないとかでなく、この外遊びは好きだからこれはするとか。
ドッチボールのルールでこっちの方が楽しそうだから、こっちのルールを採用しようとか。
 
 
2つ、相反してしまう考えの場合は互いに干渉しないのも一つだということ。
 
具体例としては宗教とか、文化とか。そもそも根本的に考えが違う場合は仲良くできないということを受け入れる。
その代わり、そっちは間違っているから直してやろうとか思わないことみたいな最小限のルールだけ定めて、お互いに干渉しあわないこと。
 
 
3つ、もっと良い考え方が存在するかもしれないし、これから環境が変わることで、変えていく必要があるということを理解すること。
 
縄文時代と今とでは考え方は違って当然ということ。
 
 
 
話を戻すと、困ったことに、常に周りの環境を疑い、もっといいものがあると思うことは、キリがない。
どこまでも深められるし、広げられる。
自分はこの問題に直面した。
 
今よりもいいものがまだあるに違いない、これよりも深い根拠があるに違いない、将来は今辛抱すればよくなるに違いないとキリがなくなること。
 
つまり満足するというか、これでいいんじゃないかと思えないということになる。
 
そう、自分はなかなか満足しないし、世の中にも満足しない人が多い。
 
それが正しいことや良いことだと割と多くの人は思っているし、自分自身も思っていた。
 
しかし最近個人的にはどうなのかなと思っている。
 
 
もちろん満足したらそこで成長のスピードが遅くなり、勝てないのは事実なのかもしれないし、多くの人が成長のない世界はつまらないと感じると思う。
 
でも本当の目的は無理してでも勝つことや、なにかできても満足しないこと、なにかの快感のあとにすぐに不満ばかりが膨れ上がる勝利なのだろうか?
 
 
自分はなにか違うなと感じている。
そもそもいろいろな情報を知ったわりには、あまりに情報が多すぎて、対処できないというか、知恵にできないというか、まとまった整理されたものにできないでいるときがある。
 
知ってしまったから、逆に頭の中がぐちゃぐちゃしたり、逆に今まで考えていたゴールの先にもっと先のゴールがあることが見えて、ゴールが遠のいたり、マイナスに働くこともある。
 
しかし今の状態でいいなんて思えないし、もっと良くなりたいと思うものだ。
 
2つを同時に満たすのはなかなか難しい。
困ったものだ。
だができないわけでもないと思う。
 
 
今は個人的なことで言ったが、世の中だって、目的が手段にの繰り返し、贅沢品はすぐに必需品に。
 
楽をしようとして発明したインターネットやその他のもので、より忙しくなっている。
 
世界がグローバル化されるにつれて、ライバルの数は増え、勝てる人は減り、スピードはさらに加速し、楽はできなくなる。
格差は広がっている。
 
 
僕は今年の三月に東南アジアを一人旅をした。その時感じたのは、田舎のほうが都会や観光地に比べて笑顔の人が多い。
小さい子供と老人の笑顔は多いが、中間層の笑顔は少ない。
 
これは先進国の文化に触れる回数が増えれば得るほど、笑顔は減ると自分は感じた。
それにスマホという魔法の道具を発明してしまったからには、不満を持つ人々はより一層増えていくだろう。
ほんとにこれを望んでいるのかと感じる。
そのことの記事はここにあるのでもしよろしければどうぞ。
 
つまり「不幸は欲望と能力のギャップにある」ということだと思う。
旅の最中たまたま読んでいた本に書いてあっただけに、まさしくこういうことなんだなと感じた。
 
そうなると不幸まっしぐらだと感じるのは自分だけだろうか?
欲望はだいたいが自分の知っているトップ層のものであり、能力は自分自身。そうなるとほとんどの人がギャップが広がり、不幸まっしぐらになるのではないか?
 
そうなると自分の感じている違和感はそんなに間違ったものでもない気がする。
 
とはいっても、だいたい自分の意見を正当化してくれる情報を無意識で選んで、やっぱりそうだろと思うことがよくあると思うから、微妙だけど、自分自身は今そう思っている。
 
別に満足しないことが悪いわけではないと思う。
とは言っても大きすぎる欲望を抱くのはあまりよくないと思うし、あれもこれもになるのもあまりよくないと思う。
 
なぜなら欲望と能力のギャップが広がるばかりだから。
 
ちゃんと自分自身で選んで、自分の欲望は決めるべきだと思う。
 
 
そう考えたら焦る必要もあんまないなと感じていて、来年の目標の一つは焦りすぎない(笑)
 
 
ただもう少し先の話になるが、そんな風に欲望を大きくしろ、満足するな。
そのためにできる限り働け、そしてたくさん消費しろ、それも効率的に。
という世の中のおかげで、せいで、
自分のことを自分より知っているものが出てくるかもしれない。
というか、できるようだ。
信じられないが…
 
そうしたら、その通りにやるのが、目的を達成する一番いい方法なる。
 
具体的に言うと、自分の目的は 世界全体を俯瞰してみて、自分をどう活かしたらいいか、そしてどうしたら幸せになれるか知り、行動に移すこと。
そしたら世界のことに詳しいやつ(人だとは限らない)と、自分のことを自分より詳しいやつが話し合って、決めて出た答えこそ正解になる。
 
何も間違っていないし、それを自分が行動に移せば目的達成だ。
 
ほかに例を出そう。
例えばあるサッカーチームの試合を見たとする。
 
個性が生かされていて、コンビネーションも抜群だし、チームの一体感があり、魅力的なチームで、そのチームの試合を見て感動したとする。
 
しかし実は、DNA検査をして、その結果を踏まえた上でのトレーニングメニューをコンピュータ(AI)が作成し、AIが選手のポジションを決め、戦術を決め、選手の頭には小さなコンピューターチップが埋め込まれ、AIがインターネットを介して、全選手に指示を送り、脳に電気信号を送り、思い通りに動かす。
選手自体は自分の意志で動いていると思っているが、それは間違いである。
 
でもこの事実を知らなければ、勝つということや感動する、させるという目的は達成される。
 
 
しかし自分はこれに違和感を感じるし、おそらく皆さんの中にも少なからず違和感を感じる人はいるだろう。
 
確かに目的は達成されるし、最短で効率的だ。
 
でもその過程には”不確定要素”、”予測不可能性”はないだろうし、山あり谷ありもない。一般的に言うマイナスの感情もない。むしろプラスの感情だけではないか。
 
これはいいことのように感じるが、なんだかそうなってしまうとつまらないと感じてしまうのは自分だけだろうか?
 
人間味がない世界というか、なんで生きているのかわからないと感じるのは自分だけだろうか?
 
旅をしていて思ったのは、不確実だからこそ、生きている感じがすごくしたということ。
そう考えるとマイナスと考えることも必要なことだと感じられる。
まぁそれは振り返った時だけなんだけど(笑)
 
それと結局そうなってしまうと、ただなにかを効率よくこなすだけのロボットと同じだし、何か入力したら、はいこれが答えデスみたいな感じ。
 
もうそこには”考える”ことなんてないのかもしれない。
 
もちろん考えて選ぶということは、考えて選んだものが間違っていて、「うわーショック」、「ミスった」ということがあって、悲しくなったり、苛立ったりすることがあるかもしれない。
 
でも考えていろんなことをしたからこそ、そこに物語が生まれて、うまくいったりわかったりしたときの感情は抽象的だけど、間違えなく「良いもの」になると自分は信じている。僕はそこを目指したい。
 
たとえ目的は同じでも、そこへたどり着く道のりで差が出る。無駄が物語を作り、無駄が魅力を生む。無駄は一見”本当に無駄”に見える。
だけどそれこそが本当に大切なことだと思う。
 
じゃあなにが無駄を生むかというと、
『考える』ことだ。
 
不完全な、未完成な、謎に満ちた人間が考えて出した答えだからこそ、山あり谷ありがあり、また山でもない谷でもない平野があり、無駄が生まれる。
 
だからこそ「幸せは考えること」によってもたらされると思う。
 
 
そう考えるとスポーツは究極の無駄なものかもしれない。
プロやプロを目指す人以外、本来日常生活にいらない活動だ。
 
なのにこれだけ多くの人がスポーツをしている。
それはスポーツが多くの人に意味を与えてくれるからだと思う。
 
逆に健康のためとか、教育的要素のためとか、お金のためとかはスポーツの意味や価値を減らしているのかもしれない。
 
 
話を戻すと、もちろん時には100発100中な占い師みたいな自分をより知っているものを使ったり、何か言ったらすぐに答えを用意してくれるものを使わないとはいわない。
 
ただ使うときにはちゃんとした意見をもって使いたい。
それなりに認められている考え方なら、いい面は必ず持ち合わせていると思うから。
 
具体的には自分がどうこうできる問題ではないが、例えば地震を予測できるAIがいたら、自分は何も考えずにこのAIの指示に従うだろう。
 
そろそろまとめていく。
自分はこれから、自分ではわりとまともなことをいっているつもりだが、ある人から見たら偏見でしかない言動をたくさんしていき、その度に恥をかく、そんな人生を歩んでいくのかもしれない。
 
僕と真逆の方向に進む人もいるだろう。
その人から見たら、「なんて無駄なことを言っているのだ」ということになりかねないし、「よくそのようにわざわざ苦痛を味わいに行くんだ?」ということになりそうだ。
 
でも、別にそう言われてもいいのだ。
それにいい悪いという判断や意味を与えられるのは自分自身だけだと自分は信じているから(これは真理ではないし、偏見であるけど)。
そう、「自分にとって」よければいいのだ。
 
とはいっても、このような考え方は変わるかもしれない。
周りの環境も変わるし、自分自身も変わる。だから考え方も変わっても不思議ではないし、独善主義にならないということでも、そう思う。
とりあえず仮止めしといて、「今」はそうおもっているということ。
 
まとめると
タイトルにあるように「今」「自分にとって」「幸せとは『考える』ことによってもたらされる」ということになる。
 
 
決まりきった道を進む、無駄の全くない人生なんて、僕はごめんだし、こういった方向に成長していきたい。
 
 
 
最後まで読んでくれた皆さんありがとうございます。もしこの文章から何か感じたのであれば、感想いただきたいです。
そんな風に思う今この頃。
 
 
 
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