凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

知らんけど、なんか分かる① ~いつか点と点がつながることを信じて~

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スティーブ・ジョブズ


『いつか点と点がつながることを信じて』

 

これはスティーブ・ジョブススタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチからとった言葉であり、このブログのキャッチコピー的なものでもある。

 

そして僕がこの言葉に出会ったのは大学4年の冬だった。大学4年と言えば、サッカーを一旦離れる決断をした年であり、僕にとって大きな転換点であったと思う。

 

 

この話の流れ的には、「この『いつか点と点がつながることを信じて』は僕の人生を変えた言葉であった」というのが妥当だが、、、違う!

 

 

僕がこのブログのキャッチコピーにこの言葉を使ったのは、ブログを始める数か月前”たまたま”この言葉に出会ったからであり、人生を変えるほどの衝撃』や『感動』『運命』的なことはなく、なんかよくわかんないけど、「いいな。好きだな」くらいにしか思っていなかった。

 

とは言っても、ブログのキャッチコピーに使うくらいだから、なんか惹かれたのだろうし、実際この言葉に希望と勇気をもらったことは確かだ。

 

 

なぜかというと僕はこの当時、サッカーの世界(+学校)から、社会というそれはそれは大きな世界に急に出されてしまい、さらに自分を表す要素の90%を占めていたサッカーを急に取り上げられてしまったことにより、大げさかもしれないが、「自分と自分の世界の喪失」を経験したからだ。

 

そのため当時、藁にも縋る思いで、訳も分からんものをどんどん吸収しようとした。でもやっぱり今まで考えたこともなかったり、関わることもなかったりしたものだから、なかなか理解できなかった。でも『いつか点と点がつながる』という言葉はそれを正当化してくれ、希望と勇気をくれた。

 

でもこの当時は『いつか点と点がつながる』という言葉を本当の意味で、理解していなかった。もちろん今でも本当の意味で理解しているかは疑問だが、少なくても自分の中では大きく意味が変わった。

 

それは、つい最近読んだ内田樹さんの『日本辺境論』という本のこの言葉に出会ったからだ。

 

子どもには『知の可能性』があるけれども、実際には備えていない。そして知を備えていないにもかかわらず、『自分は知を備えていると思い込んでいる』。そのことが彼における知の可能性の開花を妨げている。知の可能性の開花は子どもの主観の側からは、『自分が真理だと思っていたもの』の喪失として経験される。

 

そう。僕は狭い世界(サッカーの世界(+学校))でそれなりに経験してきて、勝手に「それなりに知を備えている」と思い込んでいたし、「自分が真理だと思っていたもの」、例えばサッカーのポジショニングとかお金とかそういったことが崩れていって、喪失した。

 

これでは喪失しただけで、なぜ「本当の意味で理解できた!」という瞬間が訪れたのかの経緯の説明にはならない。

 

つまり、まだ内田さんの言葉にも、僕の経験にも続きがある。

まずは内田さんの先ほどの言葉の続きから。

 

この喪失の不快が乗り越えられるためには、今それを失うことを通じて、将来的にそれ以上のものを回復することについて先駆的確信がなければ済まされない。

 

そう。僕は自分や自分の世界を喪失をすることで、それ以上のものを回復しようとしたのだ。でもこの時はそんな確信なんてなかった。むしろ不安からやっていた気がする。しかしそれでも無意識のうちに直感に従うことをし、それがうまくいくと感じていたのだと思う(僕はわりと本能でやっていくタイプだったし)。

 

 

 

さらにそのあと、このようなことが書かれていた。

 

「未開人たちは、ジャングルを歩いているとき、植物、有機物、無機物、人工物、自然物といろいろなものに出会う。そんな中あるものを目の前にしたとき立ち止まる。そして「こんな物でもいつか役に立つかもしれない」と背中の合切袋に放り込む」

 

 

 

その時ピンと来た。「あ、これが『いつか点と点がつながる』かー!!!」と。

 

 

そして僕はこう検索した。「内田樹 スティーブ・ジョブズ」。

 

 

そしたら見事にヒット。スティーブ・ジョブズのこの言葉について書いているブログ記事があった。

 

内田さんもそう思っていた。当たり前だけど。

そして内田さんもスティーブ・ジョブズのこの言葉を絶賛していた。

 

 

そう。つまりこれで”ようやく””僕はこの『いつか点と点がつながる』という言葉の有用性というか素晴らしさに気付けた。

 

僕は「先駆的に知っていた」のかもしれないけど、それは今になってからじゃないと説明できない。そういうものってこと。それを今のところ自分の言葉で表すと『知らんけど、なんか分かる』。うーん、でもなんかもっとぴったりの言葉がある気がする。それはこれから惹きつけられた”がらくた”の中からいつか見つかるだろう。それはもう知っている言葉かもしれないし、これから知る言葉かもしれないし、その組み合わせかもしれない。

 

 

 

よく考えたらこういうことは何回かあった。

「この言葉なんかあんまりよくわからんけど、気になるなというのがたまにあって、そういうのをメモしておく。そうすると他の本とか記事、または実際の仕事とかで同じようなことを他の表現で表していたり、他の視点から書いていたり、実際にそういう状況を経験したりして、そこでようやく『腑に落ちる』という経験を何度かしていた」

 

具体例を一つだけ。

僕はサッカーの指導者をしているが、この仕事を始める前に中野吉之伴さんの「ドイツの子どもは審判なしでサッカーする」という本を読み、正直その時はあまり実感がなかったが、その冒頭の言葉が良いなと思いメモしておいた。

その言葉は、

 

「あと5分!」

 

 夕暮れどきのグラウンド。練習時間の終わりになると、決まって子どもたちはそうやって楽しそうに叫びます。5分が過ぎても、「あと3分!」「今度が本当のラストワンプレー!」と粘ってきます。「終わらないじゃないか」と、僕は思わず苦笑い。

 僕はこの瞬間ほど、かけがえのないときはないと心底思っています。

 

これをちゃんとした意味で実感、理解したのは、そういう経験をした瞬間だった。

 

 

 

そして『いつか点と点がつながることを信じて』という言葉は僕の中で大きく変わり、大切な大切な言葉になった。

 

 

 

※まだ「知らんけど、なんか分かる」というテーマで書きたいことがあるのですが、それはまた次回以降に書きたいと思います。