凱都のブログ

いつか点と点がつながることを信じて。

最近噂の日大アメフト部の事件について思うこと。

この問題について、自分が感じている、もう少し根本的な原因について書いていこうと思う。

 

まずは選手自身の問題について。

 

なぜこういうチームを選んでしまうのか。ここが1つ目の問題である。

 

暴力は当然、理不尽な練習は当たり前、監督が黒と言えば黒。このようなことを知っていたら、入りたいと思うだろうか。

 

もちろん大学だから、この学校のこの学部に行きたいが第一優先事項なら、しょうがない。けれどもある程度の強豪校に通うとなれば、部活と学部をうまく平行して考えて学校を選ぶと思う。

 

その時に選手はチームの結果しか見ていないことがほとんどだと思う。だから入ってみたら、違ったということになる。

 

しかし入ってしまったら、もう変更はできない。4年間このチームでプレーすることが義務付けられる。(それか途中でやめる=選手を引退する)ここが2つ目の問題点。

 

選手である以上、誰もが試合に出たいし、強豪校のチームの選手であれば、プロを目指している選手もいるだろう。そういった選手はなおさら試合に出なくてはという気持ちになる。

試合に出なければスカウトにも見てもらえない。

 

そうなると他のチームに移籍するという選択肢がないこの状況では、なにをしてでも、このチームでまずは試合に出なければいけなくなる。だからこそ、あの選手は今回のようなプレーをしてしまったのだと思う。とても胸が痛む。

 

まとめると

◯選手には選ぶ権利があるのに、強いか弱いかとう目に見える結果だけで、判断していることが多いためにミスマッチが生まれてしまっている。

 

◯移籍するという選択肢がないから、ミスマッチでも、長い期間我慢するしかない。

 

逆を言えば、選手がちゃんとチームを選ぶことができる力があるなら、日大のようなチームは選ばれなくなるだろう。また移籍することができれば、日大のようなチームから去る選手は増えるだろう。よって日大のようなチームは無くなるはずだと自分は思う。

 

 

このようなことから、他のスポーツ、特にチームスポーツの場合に言えることだけれども、部活だけでなく、クラブチームもあるのが、いいと思う。

 

例えば中学に部活に入ったら3年間は部活じゃなくて、試合に出れなかったり、ミスマッチがあったりすれば、クラブチームに移籍するとかあってもいいし、その逆があってもいい。

 

選手である以上試合に出たいし、真剣勝負の試合にでてこそ、成長すると自分は思う。

 

しかし現状はそうではない。

「置かれた場所で咲きなさい」という名言があるように、もちろんミスマッチの中で、頑張るのもとても大切なことかもしれない。でもそこで頑張るよりも、他に移ったほうがいいこともあると思う。失敗して殴られるくらいなら、レベルを下げてでも、他のチームでやる方がいいと思うし、試合にどーしても出れなそうなら、移籍するのもありだと思う、やばい上司のせいで、ノイローゼになるくらいなら、辞めればいいと思う。もちろんそう簡単なことではないということは十分承知。

 

それでもこう思うのは、自分自身そのような経験があるから。今ならどうにかして、他の場所を見つけていただろう。たしかに少し他の場所を考えたことはあったけれども、それでも選択肢はほとんどなかったのも、また事実である。

 

前回多様性のことについて書いて、選択肢はたくさんあると書いたが、まだまだなのかもしれない。選択肢がそれなりにあるということは大切なことだとあらためて思う。

 

最後にある本からの抜粋をのせて終わりにする。

 

人間の自由と平等が認められた社会では、社会で自立的に生活して行く子どもが、ほかから強制されたり、しつけられたりしてよい行動をすることを学んでも、それは、長期的に見れば、子ども自身の生にとって何の意味も持たないばかりか、そのように人から強制されて初めて良い行動をとる人々からなる社会など、意味のある発展に繋がらない

 

 

 

 

多様性について思うこと。

最近「多様性が大切だ」と耳にすることが多かったし、自分自身もそうだと感じているので、そのことについて少し書いていこうと思う。

 

まず多様性とは

 

いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと(goo辞書より)

 

幅広く性質の異なる群が存在すること。 性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。(Wikipediaより)

 

 

また対義語は画一性

 

何もかも一様で、個性や特徴のないさま。

(goo辞書より)

 

簡単に言うと、幅広く異なる性質の"グループ"があることである。

 

生物多様性はよく聞くが、ここで大切なのは地球上に生き物がたくさんいることではなく、その多様な生き物が”つながっている"ことである。

 

このようにただいろんなものがたくさんあるのではなく、ある特徴のあるグループができること、そしてつながりあうことも多様性に必要なことだとわかる。

 

多様性の概念を一通り抑えたところで、自分の考えを書いていきたい。

 

最近は前にも書いたように、1つのものをとっても、様々な種類があり、選択肢は膨大である。それはものだけでなく、価値観も様々である。

 

それに付随してでてくるものの一つとして、自由があると思う。

 

今はいろいろなことを選べるし、こんな風に自分の思いを表現できる。自分次第で自分の思うように生きられる。それが自由だと思うし、また多くの人が自由への欲望を持っていると思う。

 

しかし現実問題、そう簡単に自由に生きることはできない。それを阻むのは、自分以外の誰かの存在だ。

 

そしてそこに争いが生まれる。

 

自分も思い当たる節があるけれど、自分の考えこそ正しい。あいつの考えは間違っている、と思ってしまい、考えを改めるべきだと思ってしまう。相手もそう思っていることだってあるし、逆に考えを改めろ押し付けられることに腹をたてる。こういう経験はたくさんしたし、これからもあるだろう。でもこういったことからなにも生まれないし、すごく勿体無いことだと思うから、できるだけ避けたい。

 

 

なにが言いたいかと言うと、自由だからといって、なにをしてもいいと言うわけではないということ。他人に不愉快なことを感じさせてはいけない。そのためにお互いがお互いに気をつけ合うこと、そして自分の考えは納得させようではなく、新しい考えを一緒に作ること(時にまったく考えが合わない時があるかもしれないが、その時は互いに干渉し合わないこと)が大切だと思う。

 

多様性があることで個人個人がそれぞれ自分に合う場所を見つけられ、そこでその人らしく生活することができる。その中で異なるもの同士が認め合えるようになり、お互いが排除し合わないようになれば素晴らしい。なぜならもうその状況で戦争なんかの争いは起きないだろうから。

 

と言っても、ただの理想論なのは間違いない。それでも自分はこう思う。

 

大切なのは自分はどういったグループ(価値観)の中で生きるのか、それをちゃんと選ぶこと。そしてそれが誰にも当てはまるわけではないこともちゃんと自覚し、認め、互いにいい関係を保つこと。

 

例えば自分がこうやってうまくいったからって、他の人もそうだとは限らないこととか。

 

人は自分が経験したことを通して、世界を解釈していると思う。だけど自分と同じ経験をしている人は誰もいない。だからこそ、うまくいかないことがあるということを理解して、その上で生活していくことが大切なんだと思う今この頃。

 

 

参考図書

生物多様性 子どもたちにどう伝えるのか

はじめての哲学的思考  など

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現実だけがリアルなんだ

GWもちょうど折り返しに差し掛かりましたが、自分は今日が唯一のoffだったので、映画を見てきました。

 

見てきたのは、スピルバーグ監督作の「レディ・プレーヤー1」。


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簡単にどんな映画かというと、2040年くらいの世界の話。その時代にはオアシスという、なんにでもなれるし、なんだってできる、VRの世界ができている。そして、人々はその世界に魅了されていて、現実とオアシスの堺がわからなくなってきてしまっている。そんな中、オアシスの運営者は自身が死ぬ直前に、その運営権をオアシスの中のゲームのクリア者に譲渡するということを決めた。その運営権をめぐる争いの物語である。

 

自分はそんなこの映画から強いメッセージを感じた。

 

それはこの作品中のセリフでもある、タイトルの「現実だけがリアルなんだ」も、その一つ。


またここでは、ネタバレになってしまうから書かないけれど、オアシスの中の3つのゲームを解くキーみたいなのは、スピルバーグ監督が人々に伝えたい強いメッセージのように聞こえた。



これから先、このような世界は実現可能であって、必ずやってくるだろう。

その時にオアシスのような、VRの世界が、現実を上回ることはないし、その中だけで、生活して行くこともできないということを理解しなくてはならない。


現実で後悔したことを、VRの世界で実現したところで、後悔した気持ちをなくすことはできないだろう。


VRの世界はあくまで、VRの世界であり、現実ではないVRの世界で現実逃避したところで、現実は変わらない。またVRの世界が現実逃避のためになってしまってはつまらないということ。


テクノロジーが進歩していくほど、便利になるし、人を助けてくれる。欲望をすぐに叶えることができるようになる。


だからこそ本当に大切なものが見えにくくなっしまうというのもある。


それでもテクノロジーがいくら進化したところで、大切なことは変わらない。


現実世界での、人とのつながりや生きがい。


そういった大切なことをまずはちゃんも自覚していくことをしていかなければいけないし、それを見失わずに進まなければいけない。もっと言えば、前に進むだけが成長ではないのかもしれない。大切なことが後ろにあるなら、少し戻るのだって、成長なんだなと感じた今この頃。







 

 

東南アジア3週間の旅から

少し経ってしまったんだけど、3週間ちょっと東南アジアに行っていた。その中でたくさんの貧しい暮らしを見てきた。特にカンボジアラオスあたりの田舎の方は、道はぼこぼこで、服もけっこう使いこんであるもの。また穴だらけ、埃だらけの家もたくさんあった。でもそんな環境でもこどもたちは楽しそうに遊んでいた。自由に駆け回り、川でも子どもたちだけで泳いでいた。
しかし、少し大きくなった子どもになると、ぐっと笑顔が減ってしまったように自分は感じた。
「なぜだろう?」
自分はこう思う。
 
「外の世界を知ってしまったから」
 
どれだけ貧しくても、びっくりしたことにスマホはどこにでもあった。スマホがあるということはネットにつながっている。つまりいろんなことを知る機会があるということ。また田舎といっても、自分が行ったのは、それなりに観光地であるため、多くの観光客が来ていた。それもまた外の世界を知るきっかけになる。
 
つまり自分たちの生活と一般的に言う先進国との生活を比べてしまうことになるということ。
そしてそのギャップに苦しんでいるように自分は感じた。
 
ルソーの残した言葉にこんなものがある
「不幸は能力と欲望のギャップにある」
 
知ってしまうと欲望を持たずにはいられないと自分は思う。だから外の世界や自分の将来のことを考えるようになってくる年頃の子どもたちの表情はあまりさえていなかったのではないかなと思う。
 
 
しかしそんな羨ましがられている私たち先進国と言われる日本人は、本当に羨ましいくらい幸せなのか?
 
まずはデータから見てみると
世界幸福ランキングで日本は51位、先進国ではビリ。(2017年)
 
なんでこんな結果なのか?
 
 もちろん全員がそうというわけではないけど、日本では多くの人が努力次第であらゆる事を勉強できるし、あらゆる職業に就くこともできる。また買うものも、例えばiphoneケースだけみても、相当な種類があり、選択肢は物凄い数である。
 
それは素晴らしいことで、自分らしく生きる、つまり自分の興味のあることをし、好きなものを買い、生活する事をたくさんの選択肢の中から選ぶことができるということだ。
 
でも 
選択肢があり過ぎて、何をしたらいいかかわからない
欲しいものがあり過ぎる(けど本当に欲しいものなのかは怪しい)
 
ということが起きているからだと思う。
 
だからとりあえみんながこう思っているからこうしようになって、結果「あれ、なんか違うな」になってしまうと自分は思う。
 
特に日本には「出る釘は打たれる」ということわざがあるくらいだから難しいのはわかるけど…団結することは日本のいい面でもあるし…
ここからもそうだけど最近、100%黒や100%白はないな。自分に合った割合を決めることが大切なんだなとよく思う。(話がそれてしまうのでこれはこのくらいにして)
 
まとめていくと自分はこう思う。
 
これから科学はさらにスピードを上げて進歩し、さらに格差が広がり、また選択肢も増える。だからまずは底になってしまっている人たちがもっと人間らしく(この表現がいいかわからないけど)生きられるようになることを願う。そして私たち自身ははちゃんと自分の軸を持つこと。そうしないとたくさんの情報にさらされている私たちはただただ流行に流されるだけになってしまう。選手を引退して、価値観がはっきりしていなかった時に不安で仕方なかったからこそそう思う。まだまだわからないことだらけだけど、その時に比べて、今はだいぶ楽になれた実感があるから。
 
 
またなぜ進歩し、効率化するのかを考えないと、不幸まっしぐらだ。無駄がなくなり、つまらない世界になる。
 
バスで12時間のところをわざわざ1泊2日かけてスローボートでゆったり過ごし、その途中にある素敵な風景を見ながら移動したことが無駄なんて思っていない。翻訳アプリを使えば通じるところを身振り手振りで必死に伝えたことも無駄だとは思っていない。むしろ自分にとっては有名な遺跡を回るよりも、何言っているかわからんけど、なんか分かってもらえたなと思えた瞬間の喜びは大きかったし、すごく楽しく、価値あることだったし、いい思い出になっている。
 
どこの部分でどれだけ無駄を残し、どこの部分をどれだけ効率化するのか?自分に合ったさじ加減を探していきたい。そしてすごく便利で評判もいいけど、自分の価値観に合わないなと感じたら、「そんなもんいらん」と言えるくらいの人になりたいと思う今この頃。
 

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”はじめて考えるときのように” を読んで

お久しぶりです。

今回は最近読んだ本、野田茂樹さんの”はじめて考えるときのように”の感想を書いてみたいと思います。

今年一年は自分なりによく”考えた”1年だったな思っていました。そんな時本屋さんで、この本を見つけて、「あれ、よく考えたってどういうこと?ほんとに考えていたのかな?」と疑問に感じて、その場で購入しました。

自分はわりかし感覚で生きてきた人間だと思っていて、というのはイチロー選手の言葉で「自分のことを一番知っているのは自分自身」というのがあって、自分自身もその時そういった感覚があったみたく、それを信じてやってきました。

しかし自分とイチロー選手との間には大きなずれがありました。

自分は自分の世界から離れないでやっていたということ。イチロー選手は外の世界を見つつも、その中で自分自身の軸で情報を取捨選択していたということ。

これでは、損することばかりですね。自分はこのことでいろいろ失敗してきたと思います(笑)

そしてこういうことが分かったのは、恥ずかしいのですが、去年くらいです。いろいろな人や本に出会ったり、いろいろな経験ができたりしたからだと思います。

新しいことを知ることが自分を広げてくれます。

しかしそれだけでいろいろ”考える”ことはできなかったと思います。それをこの本を読んでわかりました。

この本で”考える”とは 「耳を澄ませること。研ぎ澄ませること。」 「習慣的な結びつきの網目から出ていくこと」 「もしかしての世界」

なんかで表現されています。

なにか問題意識があると、いつも見ていたものから意外なヒントを得られたことはあるかと思います。

考えるとはそういったことなんだと思います。別に何かについてずっと頭の中でいろいろ検討していることが、”考える”ではなく、「問題意識をもって生活すること」が”考える”だと思いました。

で話は戻りますが、自分が今年一年はよく考えたなと思うのは、頭の中でいろいろ検討する機会も多かったのですが、人や本に出会ったことでいろいろな関心、つまり問題意識があったので、よく”考えた”と思ったのだと思います。あとは何といっても、進路で迷い続けた一年で常に、今もそうですが、問題意識があるからだと思います。

考えることも悪くないなと思いつつ、ただぼけっと生活してみたいなとも感じる今この頃。

 

 

 

 

本から得るもの

こんにちは。

昨年くらいから本を読むようになったのですが、今年は時間もあったということで、自分としてはかなりの数の本を読んだと思います。どのくらいかというと、ただいま23歳なのですが、0~22歳までに読んだ本の合計よりも、今年読んだ本の数の方が多いと思います。

で、つい最近「本を読む人だけが手にするもの」という藤原和博さんの本を読んだので、感想を書こうと思います。

まずこの本を読もうと思ったきっかけとしては、今年これだけの本を読んできて、間違えなくいろんなことを学べたと思いますし、見える世界が広がったと感じました。

出口治明さんが書いた「本物の教養」というの本の中に、ココ・シャネルさんの言葉が載っていて、「何かを覚えることで、1日1つずつ世界の謎が解けていく」というのがありました。

1つずつ1つずつ謎が解けて、見える世界が広がって、いろんなことがわかるようになり、ただ漠然と生きるのではなく、価値を見出していきやすくなるのではないか。だからこそ視野を広げ、どんな風に生きたらよいか見つけるために本を読んでいるのではないかと考えていました。

そんな時に、この本をぺらっとめくったら、「成熟社会では、自らの『幸福論』を自分で見つけていくしかない」「趣味としての読書から人生を切り開くための読書」というフレーズを見て、「あ、読書の意味ってそういうことか!」と感じたのと、せっかくこれだけの本を読んでいるのだから、価値を見出すためにも、もう一回振り返っておこうということで買いました。

読んでみて思ったのは、やっぱり読書から多くのことを学べるということ。

コミュニケーション能力だったり、ロジックで考える能力(仮説を立て検証する力)だったり、バランス感覚(世の中全体と自分との距離感 自分と地球 自分と他者などの距離感)だったり、その他いろいろ。

でも結局は「自分のアタマで考えて、主体的な意見を持つ能力」が付くということなのではないかと思いました。

いろんな人の考えや性格、その時の感情といったものを本を通して体験することで、物事を多面的に捉えられるようになり、表面的ではない、自分の意見を持てるようになること。これが読書から得られるものであると感じました。

また藤原さんは本から得られることは大きいが、リアルな経験から得られるものにはかなわないと言っていました。ほんとはリアルな体験が一番だけれども、経験しようとしたら時間が足りなすぎるから読書であるということでした。

他にも学校の授業も数学ならロジック、実技ならプレゼンテーション能力などに役立つという話(小さい時に知っておきたかった)

教育とは伝染・感染である。先月お会いした方が「親がこどもにできる一番のことは”大人である親自身が楽しんでいる姿を見せること”と言っていて、それと似ているなと感じました。本を読む大人が近くにいたら、自然と本を読むようになるし、サッカーだったら、指導者がサッカーを楽しんでいるかは大切な要素だと思います。つまらなそうにやっていたり、いつもいらいらしてたら、こどもはそうなってしまう。上に立つ人というか、年上の人は年下の人からしたら先輩ですし、お手本になってきます。自分はその時ちゃんといい影響を与えられるような人でありたいと思います。

少し話がそれましたが、リアルな経験をなるべく大切にしながら、足りないところを読書で補って、自分らしい生き方、幸福論に近づいていけるように頑張りたいと思う今この頃。

 

しあわせの経済 世界フォーラム2017 in 東京 に行ってみて感じたこと

こんにちは。

先日東京の明治学院大学で行われた、しあわせの経済世界フォーラム2017 in 東京(2日目)に参加して来ました。その時の感想みたいなのを書きたいと思います。

どんなイベントかというとサブタイトルが「Locol is Beautiful!」だということからも、ローカリゼーションの話です。

つまり多様性がなくなり、均質化され、様々問題ができたて行き詰まり感のあるグローバル経済よりも、ローカル経済の方がワクワクするし、様々な問題を解決してくれるのではないかといった内容でした。

なぜこのようなイベントに参加しようとしたかというと、自分もそんな世の中に不安を抱え、希望を抱けていなかったからです。

そんな自分はつい1週間前まで長野で2か月間地域活性のような取り組みを行ってきました。そこでの活動は楽しかったですし、自分は何か希望を感じたというか、そんな気分になりました。

だからこそもう少し詳しくしりたいなと思い参加しました。

前置きが少し長くなってしまいましたが、学んだことを書いていきたいと思います。

学んだこととしては、”均質化”、”循環型”、”全員参加”の3つのキーワードがありました。その3つのキーワードをもとに書いていきたいと思います。

1つ目は”均質化”です。 みんなが同じ商品をもてるようにする、どこにいても同じものが食べられる。どこにいっても同じ店がある。そんなことだと思います。もちろんいい面もあります。今ならiPhoneがなかったら大変だと思いますし。 でもそれで本当にいいのでしょうか。平等が本当にいいことなのでしょうか。そもそもほんとうに平等なのでしょうか。疑問です。 自分はどこも同じような光景の広がる地方都市に面白さを感じませんですし、みんな同じにならなくてもいい気がします。そして平等にしようとしていますが、格差は広がるばかりです。そして例えば今の日本のような暮らしが貧しい国の暮らしよりも本当に幸せなのでしょうか。自分が体験していないのでよくわかりませんが、楽しそうに暮らしているというのはよく聞きます。また不便は何もないのに忙しくて幸せを全く感じられない日本人の話もよく聞きます。このような現実からも、均質化がいいとは自分は思えませんですし、今回の話を聞いて、改めて、多様性が大切なことが分かりました。それは小さいほどやりやすくなります。人数が多いほど指導するのが難しいように、大きければ大きいほど、個別に見ていくことは難しくなります。大きくなると大まかにとらえて、均質化、簡略化しようとして対応しなくてはいけなくなってきます。だからこそローカルな小さなところで、1人1人見てあげられるような環境を作っていくことが大切なのではないのかと思いました。

2つ目は”循環型”です。 1つ目で、個別に対応する、多様性を保つ、など個性を活かすようなことが大切だと書いたのですが、それはそれで難しいことです。好きかってやっていてはなかなかまとまりません。ではそれをどのようにまとめたらいいかというと、”循環するようにする”ことです。例えば昔は灰買という職があったみたいのなのですが、木を伐り、薪にして、燃やして、灰になったのをまた畑に戻して、食物の栄養にする。こんな循環がありました。今は再利用できないものが多く、循環型ではない世の中だと思います。もう一つ例を挙げると、他の地域からなにか仕入れていたとして、そこからの仕入れができなくなったら、もうそれを仕入れることができません。(他のところから仕入れることはできますが)。今の世の中は依存する部分が大きいです。それはみんなで支え合っていていいことかもしれませんが、リスクも大きいです。生きる力を失ったというか、何かが壊れたら一気に壊れそうで怖いです。だからこそ、ローカルな関係で生きれるようにした方がいいと思いますし、それが循環する、持続可能にするためにも大切なことなのかなと感じました。

3つ目は”全員参加”です。 地域での取り組みで大切なのは、全員参加になるように取り組むことだと感じました。それが愛着を生み、循環型、持続可能な取り組みにつながってくるのだと感じました。勝手に作られたものは相当いいものでない限り、なかなか使わないみたいなのですが、少しでも参加して一緒に作ったという感覚があると、絶対使ってくれると言います。だからこそ、企画する人がすべて決めるのではなく、むしろほとんど決めていない方がうまくいくみたいです。だからこそ完璧すぎる設計だったり、人だったりすると、参加してもらえないので、うまくいかない。不完全くらいがちょうどいいということにびっくりしましたが、なるほどと思いました。 そしてもう一点大切なのは、楽しい取り組みにすること。意義があるからで動く人は少ないけど、なんか楽しそうなら人は簡単に動く。だからこそ外側の人に向けた取り組みというよりも内側の人が楽しそうだと感じられる取り組みが結果的に地域活性などにつながるのだなと感じました。

3つのキーワードで書いてきましたが、ようするに草の根の形で、一人一人できることはやって、住んでいる地域をよくしようという気持ちになれたらよくなるのではないかと感じた今この頃。